2022/04/23

「ホーリとカリーヌイチ」

 ツルゲーネフは父と子、初恋、ルーヂンを読んだことがあって、どれも印象に残っている。

よく考えてみると、私が読んだ小説や詩のなかでロシア人の作品の占めるウェイトはかなり多く、日本人に次ぐというか、ほとんど日本かロシアか、みたいになっている。

地下生活者の手記、カラマーゾフの兄弟、罪と罰、白痴、戦争と平和、クロイツェルソナタ、大尉の娘、オネーギン、どん底、など、外国の作品で心に残っているのはロシアばかりだ。

ロシア以外だと、サリンジャー、トーマス・マン、シェークスピア、ゲーテくらいだろうか。

猟人日記は今岩波文庫のラインナップにない。

たまに本屋に行くと岩波文庫の棚をながめるが猟人日記があったためしがない。

なので、amazonかヤフオクか忘れたが古本を買った。

今持っているのは1958年1刷、1998年15刷(上巻)、12刷(下巻)のものである。

けっこう前に買ったはずだ。

初めて買ったのは30代の頃だったと思うが、その時も中古だったのだが買ったら両方上巻だか下巻で読む気をなくした。

そして最近といっても数年前に買いなおした。

いつも、なんで猟人日記が(新品で)売っていないのかと不思議だった。

読んでもいないのだが名前はよく聞くし、不朽の名作のようなものだと思っている。

太宰治の斜陽に、主人公と女が猟人日記について話、主人公が「あれはちょっとうまいね」とかいうシーンがある。

初めて斜陽を読んだのは高校生の時だったが、その時からいつか猟人日記を読んでみようと思っていたが、もう30数年が経ってしまった。

最初の二三篇を読みかけたことがあるのだが、どうも頭に入ってこず、やめてしまった。

今回、なんとしても読んでやろうと思い、最初の「ホーリとカリーヌイチ」を読んだ。1回読んで、やっぱり何が言いたいのかよくわからない。何も頭にも心にも残らない。すぐにもう一度読んだ。ようやく情景がうっすらと頭の中に浮かんできた。食べ物を用意するところとか、納屋で寝るところとか。

ウィキペディアに、アレクサンドル2世が読んで農奴制廃止を決意したと書いてあるが、農奴制を描いてはいるが批判的に描いているとまでは言えないように感じた。

ドストエフスキーやトルストイの作品を読んでいても主人と召使みたいな関係はよく出てくる。古い映画を見てもでてくる。子供の頃に読んだ童話にも出てくる。私はそういうものを読んでも昔はそういうことがあったのだなと思うだけで農奴制という悪しきしきたりなどとは感じなかった。

今では会社員が正規社員と非正規社員に分かれて、実質奴隷のような状態で働かされているのを見て、奴隷という存在は社会に必要なのではないかと思ったりする。


最初の一文。

「ボルホフ郡からジーズドラ郡へ渡ったことのあるものは、オリョール県の人たちとカルーガ県の人たちの気質に、際立った相違のあることにきっと驚いたことであろう。」

今回読み直してみて、あらためてここで戸惑う。

ボルホフ郡とオリョール県、ジーズドラ郡とカルーガ県の関係は?

普通「郡」は「県」の中にある。オリョール県とカルーガ県の県境にあるのがボルホフ郡とジーズドラ郡で、ボルホフ郡からジーズドラ県へ「渡る」(この言い方も現代日本ではわかりにくいが川を渡るのだろうか?)ということは、オリョール県を出てカルーガ県へ入るということなのか。

ウィキペディアで調べるとそのようである。

オリョール州ボルホフ市、カルーガ州ジズドラ市、川沿いにある市である。


どこで見たか読んだかわからないのだが、山本周五郎の青べか物語や季節のない街は、猟人日記に影響されたものだという話を聞いたことがある。

2022/04/10

2022年4月9日 ゴロフキン対村田

 さいたまスーパーアリーナ。

開場は4時、最初の試合は5時からということで、

せっかくなので全部見ようと4時少し過ぎに駅に着いた。

トイレに行こうと思ったら長蛇の列。


あきらめてスーパーアリーナへ向かう。

The Whoのライブ以来だが、あれはたしか2008年だからもう14年も経つのかと感慨にふける。

人が多いがみんながスーパーアリーナへ行くわけでもあるまいと思っていたが会場につくとすでに大勢が会場入りしていた。


買ったチケットはアリーナのリングサイドB席。11万円。妻にはボクシングを見に行くとは言ったがこんな席のチケットを買ったことは内緒だ。

帝拳ジムの情報ではメインイベント以外に東洋太平洋とWBOのタイトルマッチがあるとのことだったが、4回戦、6回戦の試合もあり、さらにWBOタイトルマッチの後にもう一試合4回戦が行われた。


私の座った席は、リングから20列目くらいだろうか。下から見上げるような場所である。

こんな角度でボクシングを見るのは初めてだ。


もう30年前になるが、レパード玉熊が綾瀬にできたばかりの東京武道館でタイトルマッチをおこなったのを観たのだが、そのときもこんな位置だったろうか。


すべての試合をじっくり見た。テレビやyoutubeで見るのとは全然違う。

正直言って前の人の頭だったりロープなどが邪魔でちょっと見にくいのだが、

臨場感というか、迫力というか、そういうものは何にも代えがたい。


WBOタイトルマッチに勝った中谷潤人というボクサーを知らなかったのだが、まだ無敗ですばらしいボクサーで、有名らしい。


さて、ゴロフキンと村田の試合であるが、

まず、どうも村田の表情がさえない気がした。

リングの上にあった大きなディスプレイで見た会場入りする様子、控室の様子を見ても、なんだか気が沈んだような、よく言えば冷静で平然としているのだが、なんだかおびえたような、あきらめたような雰囲気さえ感じた。


いよいよ入場となって、会場は声を出すことが禁じられていたが沸いた。

村田はTシャツを着て入場してリングにあがるとシャツを脱いだのだが、

その体をみてなんだか痩せて肌の色が土気色のように見えた。

それは、その日おこなわれた5試合で見たどの選手にもないような不健康な色に見えた。


家に帰ってamazon primeの映像を見るとそんな風には見えないのだが、現地ではとにかく覇気がないというか、試合前なのに疲れているようで高ぶりも感じられなかった。


ゴロフキンは、やや年をとったなという感じはあるものの、オーラというか、みなぎるようなものが感じられた。


試合は序盤から村田が攻め、会場は沸いた。

ゴロフキンは下がりながら防戦一方のように見える。

2R終了後のインターバル時の様子は直接は見えにくかったのだが、

ディスプレイで見るとかなり疲労していて、まだ2Rが終わったばかりだというのに頭から水をかけられて髪の毛もグシャグシャになっていて、

あれ、もしかして負ける?

と思った。


ゴロフキン有利という評判だったが、私はカネロとの2回目の試合をyoutubeで観た印象と、その後それほど強い選手と戦っていないこと、ブランクが長いことなどからもしかして村田が勝つのでは?と思っていたが、

試合が始まるころにはゴロフキンが負けるわけはない、という風に思い始めていたのだが、やっぱり負けるかもしれないと思わせた。


村田は前に出るとともに、執拗にボディを打っていた。

しかしそのボディブローはほとんどトランクスのベルト部分にヒットしている。

ローブローじゃないかと思ったがレフリーは何も言わないしゴロフキンも抗議することもない。


会場はろくにヒットしてもいないのに村田が手を出してゴロフキンが下がるだけで歓声があがる。

だがゴロフキンは決して下がる一方にはならず、細かくパンチを入れ、かならず反撃してくる。

2R, 3Rは村田のラウンド、4Rも村田かなぁ、という感じだった。

たしか5Rだったと思うが、ついに村田のローブローが注意された。

(その前にも注意されたという情報があるが私が気づいたのはこの時が初めてだった)


そのあたりからボディブローがほとんど出なくなった。

そしてゴロフキンのパンチが当たる場面が増えてくる。


村田も被弾しながらも勇敢に前に出て反撃をするのだが、

明らかに疲労がたまっているのが分かる。鼻血も出ていたし

顔もカットまではいかないがあちこちすりむいている。

6Rか7R開始してすぐに、何かがピューンと飛んだ。村田のマウスピースだ。

そんなにもろに当たったという感じではなかったが、スパーンと打ち抜くようなパンチだ。

今はマウスピースが落ちるとすぐにレフェリーが止めて入れる。


これはヤバいなと思う。

(というか、自分の中ではゴロフキンがやっと実力を見せ始めたという安心感の方が強かった)

7, 8Rはロープに詰められて滅多打ちに近い状態となることもありストップされるのではと思った。

そして9Rついにダウン。試合終了。


twitterやyoutbueなどで試合の感想を見ると感動したという人が多かったが私は村田については果敢に立ち向かったことはすばらしいとは思うが、あまりいい状態ではなかったように見えた。


そもそも、今までの村田の試合について私はあまり評価していないというか、なんだか慎重に相手を選んで強い相手を避けてきたような、どこか別の世界で競技をしているような違和感というか物足りなさを感じていた。

おそらく彼自身、いつかはカネロやゴロフキンという「本物」と戦って見せたいという思いがあり、そしてとうとうそれが実現したわけだが、その結果はやはり世界チャンピオンと言ってもまた別格の存在であることが明らかになったという悲しさのようなものがあった。


会場はサーチライトのようなものがまぶしくて、ひさしのついた帽子を持ってくればよかったと思った。

またトイレが常時(もちろん試合がおこなわれていない時)行列ができているので、

今度このような機会があれば外ですましておこうと思った。

あと、場内は室温が低く、長袖シャツ一枚では少し寒いかなというくらいだった。リング上はライトが照っているからそんなに寒くはないのだろうが。


そしてリングサイドで見るというのは貴重な経験だったが、今度はやや上から全体が見下ろせるAとかBとかの席でいいかなと思う。


2021/09/18

松本人志の映画について

松本人志の映画についてあらためて考えた。

私はテレビで松本人志が出ているワイドナショーと酒のツマミになる話を毎週楽しみに見ている。

彼は漫才から始まってコント、フリートーク、MCと様々な役割をこなしてデビューしてからもう40年くらいになるのだろうか、いまだに第一線で活躍している。

ごっつええ感じで「2014」というタイトルのコントがあった。

漫才コンビが年を取って落ちぶれた時を想定したコントである。たぶん1994年に作られたと思う、20年後の話ということになる。

しかし実際の2014年ごろのダウンタウンは落ちぶれるどころか人気絶頂の地位を維持したままであり、それから7年経った今でも衰えるところを知らない。

松本が映画を撮ったのは2007, 2009, 2011, 2013年の4回である。

いずれも話題になって私もすべて映画館で観たが、評判は芳しくなく、私もやや、作品によってはかなり、期待外れだった。


最初の監督作品の大日本人の時から、彼の映画については疑問視する声が多かった。どうしても北野武と比較され、どう見ても彼は武にはかなわなかった。


松本が映画を撮らなくなって8年経った。彼は自分の映画について一切語ることをしない。あれはこういう意図だったとか、評価は低いが自分では満足している、などということも言わない。


先日、酒のツマミになる話で、好きな映画を聞かれたとき大衆受けしているような映画であっても恥ずかしがらずに好きだというべきだ、みたいな話になった。

その時、松本人志がかつて映画を撮ったことがあるのはなかったことにしているかのように、誰も松本が映画を撮ったことに触れなかった。

松本人志自身も、あくまで一般人と同じ鑑賞者としてその話題に参加していた。


私は松本人志のファンであり、彼の映画について批判的な話を聞くのはつらい。

だが、彼の映画を批判する一般人の、どこの誰かもわからない人のブログやネットニュースのような記事を読むと、つらいだけでなく、その批判に対して疑問を感じることがある。


この人は松本の映画を駄作だと言っているが、いったいどういう映画を傑作としているのだろうか?

大体が松本はテレビのお笑いには向いているが映画には向いていない、というようなことを言う。

ほとんどの人が、私は松本のファンや信者だが、この映画の出来には納得できない、という言い方をしている。


そこで私が思ったのは、もしかしてこの人たちはテレビのお笑い番組ばかり見ていて映画なんかほとんど見ていないんじゃないか?ということだ。


観ているのは、となりのトトロとか、ロッキーとか、ターミネーターとかマトリックスとか、マッドマックスとかワイルドスピードメガマックスとか、エイリアンとか、そんなのなんじゃないのか?


武が映画監督をすると聞いたとき、松本人志がしたようにちょっとふざけたというか、型破りな、形式すらぶち壊すようなものを撮るのかと思ったらごく正当というか本格的な映画だったので驚いたのだが、それは武が異常だったのであって、お笑い芸人が映画を撮るとなったら松本人志みたいになるのがむしろ普通なのではないだろうか。


武と松本を映画を撮るということについて比較するとその違いは、テレビ番組に出演することに対する姿勢が大きいと思う。

武が映画を撮り始めたころ、それよりも少し前から、武はテレビ番組に出演することに興味を失っているように見えた。いや、漫才をやらなくなったころから、武はテレビはくだらないと思いながらずっと流してやっているように見えた。

そしてテレビでは満たされない自分の表現欲求を映画で思う存分充たしたように見えた。

いっぽう松本人志は楽しそうにテレビ番組に出演してノリにのっている時期に映画を撮り始めた。そして映画はテレビの延長というか、テレビで成功したことを映画にも応用させようとしたように見えた。もちろん彼はテレビでやったことをそのまま映画にはできないことをわかっていて、なんとか映画ならではのものを表現しようと考えたのであろうが、表現したいものがありその手段として映画を選んだというよりも、映画を撮るということが先にあって、映画という素敵な箱があって、そこに何かをいれた、という感じがした。


松本人志のファンが映画館で観て失望したのは、彼ら自身だったのではないだろうか。そこで見たものは、自分がいつも自宅で寝転がって何かを食べたり飲んだりしながら何も考えずつまらない日常をなんとかまぎらわそうと、若いころから自分を慰めるように観ていたものだったのではないか?

映画館という大きな、自分のプライベートな世界の外側で、ややかしこまった場所で、周囲にデートしているカップルや友達同士で来ている人たちの中で、家でテレビを観るときのように松本人志を観た時の違和感にたまらなくなったのではないだろうか?


2021/07/31

志賀直哉 「暗夜行路」

志賀直哉は私の好きな作家の一人なのだが、 暗夜行路は読むのが苦痛だった。 何度か読もうとして挫折したが、今回は何とか読み通した。 文体は飾り気がなくて素朴で読みやすく、時代の違いもあまり感じさせない。 志賀直哉は夏目漱石の弟子のような人で、 暗夜行路は夏目漱石に新聞に連載することをすすめられて書き始めたそうである。 しかし書き手も難航して連載は辞退し、なんども中断して20年以上かけてやっと完成したらしい。 

なんでつまらないのだろうか。

まず、主人公が経験していることや感じていることが劇的でもなければ共感することもない。 わざとらしいオハナシではなく現実を描いたものだということなのだろうが、 言いにくいことを思い切って告白したとか人が見ようとしない世界に切り込んだというわけでもない。 

この作品は傑作とされているようで、 だから私も読まねばなるまいと思っていたのだが、 読んでみても傑作である所以はよくわからなかった。 虫とか小動物などの描写がうまい。 これは他の短編でも感じたことである。 あとがきに「一回毎に多少の山とか謎とかを持たせるような書き方は中々出来なかった」とある。 これは夏目漱石が「新聞の続物故豆腐のぶつ切れは困る」という注意があったために意識したことらしい。 

夏目漱石の代表作もだいたい新聞連載である。 私は漱石の作品はめぼしいものは大体読んだが、連載一回分と思われる区切り(章というのか?)とごに、 山とか謎を持たせて読者の興味を引くようなテクニックがあるとは感じなかった。 感じさせないように自然に書けるのが漱石のすごさなのか、もしかして本当に意識せずに「山」や「謎」ができていたのかわからないが、志賀直哉はそこに苦労したと自ら言っていて、私が読むのが苦痛だったのもそれがうまくいっていなかったためではないかと思う。 

終盤のほうで満州とか朝鮮の話が出てくる。 それらについての主人公の態度や感じ方がなんだか横柄というか無神経に感じた。 子供が生まれて間もなく亡くなるシーンもあったが、それについても拾った犬が死んでしまった程度の反応に見えた。 

当時の日本人はきっとみなこのような感じ方、暮らし方をしていたのではないだろうか。 人間の見方、結婚とか仕事とか商売に対する考え方があまりに軽く、不用意というか、軽率というか、 そんな風に感じた。 安らぎや感動を感じるのは人間関係から逃れて自然に触れたときでしかなく、 人間関係において何かを乗り越えたりなにかが育まれるとか克服するとか、 そういうものが見られない。 半島や大陸進出が結局失敗して戦争で大敗することになったのは、 当時の人たちが皆暗夜行路の主人公のような人々だからだったのではないか、などということを感じさえした。

2021/05/15

The Shawshank Redemption(「ショーシャンクの空に」)

 この映画のタイトルは聞いたことがあって、あまりおおっぴらにすすめられるような映画ではないが隠れた名作みたいなものだと思っていた。

刑務所が舞台で、確かに暴力や同性愛や不正行為など、暗い内容を扱っている映画ではあった。

でも思ったよりポピュラーというか、よく言えばストーリーに起伏があっておもしろい、悪く言うと俗悪だった。

原作はスティーブン・キングだということを後で知った。

シャイニングの原作も彼だが、なんか、「原作 スティーブン・キング」というだけで観る気が半減する。

モーガン・フリーマンの名前は知っていたし顔の写真だけはよく見ていたが、

彼が演じている映画を観たのは初めてだ....と思ったら「セブン」に出ていたのか。

「ダークナイト」にも。


英語字幕で観たので、セリフの聞き取りが完全ではなくちゃんと理解できていないところは多々あったと思う。

面白くて一気に観たが、観た後にいろいろ考えさせられるような映画ではなかった。


2021/03/15

山本周五郎 「青べか物語」

 新潮文庫

昭和39年8月10日発行

昭和56年4月25日二十八刷


山本周五郎を初めて読んだのは、黒澤明のどですかでんを観て感動し、その原作が山本周五郎の「季節のない街」だというのを知った時だった。


この本を読んだのは、そういえばアレ読みたいなと思ったからなのだがアレというのは季節のない街と青べか物語がごっちゃになっていた。


青べかを読み始めてしばらくして、あれ?あの話がないな、こんな話あったっけ、

と思い、インターネットでしらべて「青べか」と「季節のない街」が別の作品であることを思い出した。


だが、やっぱりこの二つの作品はよく似ていて、どちらも好きだ。


青べかは今回全部読んだが、多分全部読んだのは初めてだ。


物悲しい、憐れというか哀れというか、愚かな人々の、愚かな行動が綴られているが、

人間って、こういうものだったよな、もともと、という感じがした。



2021/02/23

西城秀樹 「あなたと愛のために」

 ふと、西城秀樹の「ブーメランストリート」が聴きたくなった。

聴きたくなったというか、頭の中に流れ出した。


少し前に、西城秀樹の70年代シングル盤集みたいなものを買ってあったので聴き始めた。

西城秀樹は子供の頃カッコいいなと思っていた歌手だが、ブーメランストリートが発表されたころにリアルタイムで聴いていたかは微妙だ。

聴きながら、どの辺から聴いているかなと探していき、ブルースカイブルーは確実に覚えている、炎も覚えている、その少し前のブーツを脱いで朝食をは、どうだったかな、と、

その間に挟まれて「あなたと愛のために」というタイトルがある(wikipediaを見ていた)。


あれ、どんな曲だっけ、と聴いてみると、イントロでポポポポーンというかピュピュピュピューンみたいな電子ドラム音が流れて、あ、これ俺が好きだった奴だ!と思い出した。


聴いていると、おぼえてはいなかったのだが、自分が一言一句聞き漏らさずにメロディーも全部かじりつくように聴いた曲であったのがわかった。

作曲は大野克夫。


小学校低学年の頃は西城秀樹が好きだったが、3年生くらいから沢田研二の方が好きになっていった。

大野克夫は沢田研二のヒット曲をたくさん書いている。


西城秀樹は沢田研二よりも清潔で好青年なイメージがあって、沢田研二の方が人生の悲哀や男女間の機微みたいなものを表現するのに似合っていた。

だから沢田研二の方が売れていて、西城秀樹はいい歌手ではあったが、人気絶頂で天下を取ったみたいにまではならなかった。


まあ、だからどうだということもなく、それはそれで、沢田研二も西城秀樹も素晴らしい歌手であるのは間違いない。


ちなみに尾崎豊は絶対に西城秀樹に影響を受けていてマネをしているといってもいいと思うのだがそういう話はきいたことがない。



2021/01/11

2020年にレコードプレイヤーを買った

 私が初めてレコードプレイヤーを買ったのは高校生の時、198x年だ。

そして初めて買ったレコードはサザンオールスターズの「ヌードマン」である。

週に1回くらい、近所の歌詞レコード屋へ行って、1回に3枚くらい借りて、カセットテープにダビングし、歌詞カードをコピーしていた。


それからレコードがCDに置き換わったのは2、3年くらいのうちだったと思う。

CDで聴くのが当たり前になった頃に、たしか1995年ごろ、職場の人と雑談していたときに、アナログレコードとCDの音の違いについて話したときに、まあまあ音楽に詳しく演奏家でもある人が、比較にならない(くらいレコードの方がよい)と言っていた。


私の聴く音楽はいわゆるポップスやロックなどなので、そんなに音質にこだわらないからいいか、と、そういう話も聞き流していた。


それから音楽を聴く媒体はCDからMP3に変わっていった。MP3になると、ビットレートにもよるがさすがに音質の劣化を感じ始めた。


「音が悪い」というと、私にとっては「クリアでない」「雑音が多い」「曇ったような、こもったような感じ」「小さい」という感じが多いのだが、MP3の音質の悪さというのはそういうことではなく、キメが粗いというか、画像にたとえると解像度が低いというか、ザルですくったような感じというか、自然現象では経験しない、なんとも気持ち悪い感じだ。


そういう気持ち悪さは、「CDやMP3はデジタル化しているので微妙な周波数がカットされている」というような話を聞いたからそういう風に思い込んでいるというのもあるかもしれない。


iPhoneを使うようになって、音楽はイヤホンをして外で聴くものになった。家にいるときに音楽を聴くことがほとんどなくなった。


そして聴く音楽は若いころ聴いた古いものばかりで、クラシックやジャズなどは聴かなくなっていった。

1枚のアルバムをじっくり聴くことが減り、ほとんどなくなり、何かするときにBGMとしてシャッフルで流しておくことが増えた。


自分の好きなアルバム、アーティストの最高傑作は何か、などを考えていた時に気づいたのが、そういうときに選ばれたものはほとんど、アナログレコードで聴いたものだということだった。



さて、レコードプレイヤーを買って聴いてみた感じはどうだったか。

スピーカーがパソコンで使うような小さなものだったりするのだが、


最初に感じたのは、「鉛筆で書いた絵のようだ」という感じだった。


針を落としたときに「プチ」っといったり、細かいノイズは聞こえる。


レコードに触ったり傷つけたりしないように気を使うしひっくり返すのも面倒くさい。


でも、音楽を聴くというのは、それくらいの手間をかけて当然ではないだろうか。


そもそも、レコードさえ、演奏の録音であって、録音など音楽ではないというミュージシャンの意見も聞く。


レコードで聴いていると、いつもiPhoneでイヤホンをして聴いている音楽が退屈で物足りなくなってくる。


人間の声より、バイオリンとかサックスとかピアノの音が聴きたくなる。



2020/12/31

シーモア ―序章―

 「あれか、これか」を読んでいるときに、インターネットでいろいろ調べ物をしていたら、サリンジャーの「シーモアー序章ー」に、キェルケゴールの名前が出てくるということを知った。

ページをめくった最初のところに2つの引用があって、一つは死に至る病である。

「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」とセットで発表されたようであるが、「大工」の方は高校生の頃読んだ。

「ライ麦」を読んで感動して、お茶の水の古本屋で全集だか選集だかを買った。

シーモアをはじめとして兄弟姉妹の話が複数あり、非常にリアリティがあるのだが、実話なのか創作なのかわからない。

創作っぽいのだが、今回「シーモア」を読んで、やっぱりこれは実話じゃないと書けないのではと感じた。


読了 「あれか、これか」6 

4冊の最後の一冊、 第二部(下)をようやく読み終えた。


「人格形成における美学的なものと倫理的なものの均衡」

「ウルティマトゥム」

「われわれは神に対していつも正しくないという思想のうちにある、教化的なもの」


「人格形成における....」は、本作の前半で述べられたことに対する反論というか、お説教というか、たしなめというか、先生が生徒に語り掛けるような手紙の形式である。

「あれか、これか」の前半を読むのは苦痛であったが、後半に入って自分の知っているキェルケゴールにようやく会えたような気がした。

聞いた話だが本作は後半が先に書かれ、後から前半が書かれたという。

つまり、私が感じたように、前半のモーツァルトがどうこうとか誘惑者がどうこうというのは、壮大な「フリ」であって、キェルケゴールの言いたいことは後半にあったのだ。

読んでいて、ほとんど「死に至る病」と同じようなことを言っていると感じた。


いちおう、「あれか、これか」をついに読了した。

高校の授業でその奇妙なタイトルを聞いて読んでみようかなと思ってから30数年が経ってしまった。


さて、このタイトルの意味であるが、デンマーク語は Enten-Eller、英語では Either/Or と書かれる。

日本語のタイトルだと、「AかBか」、「美学的なものと倫理的なもののどちらを取るか」みたいなことかと思うし、解説のようなものを読むとそのように説明されていることが多いように思うが、そうではなかった。


デンマーク語はわからないので(読んでいる途中にデンマーク語入門のような本も買ったが)、英語の Either/Orを説明的に日本語にすると、「両方選ぶか、どちらか一方を選ぶか」となる。


こうしても、「倫理的なものと美学的なものを両方選ぶことはできない(だから美学的なものを捨てて倫理的に生きねばならない)」というように解釈することもできるが、そんな断定的な内容ではない。


おそらくこれは、キェルケゴール流の壮大な弁証法なのだろう。弁証法というものは私にはいまだにどういうことかピンとこないのだが、AとBという相反するものについて議論してどちらがいいとか悪いとするのではなく新しい次元の概念に発展させる、というようなことだと理解している。


弁証法という考えは広義にはプラトンが書いた、ソクラテスが弟子と対話して議論をすすめていく方法のことも指すらしい。


正・反・合、なんて、「ケンカした後でお互いのことがよくわかりあえて前より仲良くなった」みたいな、安っぽいきれいごとのようにしか思えなかった。


キェルケゴールの弁証法は、そんなきれいごとではなく、もっと苦しい、体が引き裂かれるような、あるいは体と心が引き裂かれるような、つらくて永遠に結論が出ないようなものである。


そして彼が他の哲学者と決定的に違うのは、神(キリスト)という絶対的なものが存在していることである。


彼は、考えて、哲学して、弁証法によって神にたどり着くのではない。神は大前提であり、哲学と信仰とは完全に切り離されている。信仰のための哲学でもないし哲学のための信仰でもない。


この作品は彼が婚約までしたのに結局結婚しなかった、という事件があったころに書かれたものである。

結婚が大きなテーマであることは間違いない。

「人格形成における....」は、結婚している者が結婚していない者(キェルケゴール)にあてて書いた結婚を肯定する手紙であるが、それを書いているのは結婚していないキェルケゴールである。

こんなものを書いておいて、彼は結婚しなかった。「結婚は哲学あるいは信仰に邪魔だ」という考えだったわけではないだろう。

私には、彼は自分は結婚する資格がない、結婚するにはまだ未熟だ、自分が結婚しても妻を幸せにしてあげられない、みたいな考えだったように感じる。

キェルケゴールについての評伝みたいなものには、明らかにされてはいないが何かとてつもない大きな事件があったかのように書かれているのだが、私はそれは確かに大事件かもしれないが、具体的な行為であるとか特定の人間との関係とか(親子とか愛人とか)いうものではなくて、ごく内面的な事だったのではないかと思う。


2020/12/30

M-1 グランプリ 2020

 今年は予選から観た。

全部観たわけではないが、twitterやyoutubeなどで噂になっているコンビ(じゃないのもいるが)はだいたいチェックしていた。

採点

決勝1本目

インディアンス 87

東京ホテイソン 91

ニューヨーク 92

見取り図 93

おいでやすこが 94

マヂカルラブリー 90

オズワルド 89

アキナ    88

錦鯉 92

ウエストランド 86


決勝2本目(順位)

1.マヂカルラブリー
2.おいでやすこが
3.見取り図

敗者復活戦(3組選択)

1.金属バット
2.コウテイ
3.滝音


その他、途中で敗退したがおもしろいと思ったコンビ

タモンズ
コロコロチキチキペッパーズ
ななまがり
ストレッチーズ
さや香
キュウ
あかね
トムブラウン
祇園
デニス
令和喜多みな実
令和ロマン
シンクロニシティ
あかね(黒木・山崎)


感想


金属バットに決勝に出てほしかったのだが、
予選からずっと観て、過去の漫才もyoutubeで観て、
おもしろいのだがM-1向きじゃないかな、という気がだんだんしてきて、
敗者復活選のトップバッターの漫才を観たときに、ダメだな、と思った。
(投票したが)

マヂカルラブリーは3年前に観たときは二度と出すなと思うくらい嫌いだったが、
今回は予選からおもしろくてすっかり見直した。
私の採点だと彼らは2本目に残れなかったことになるが、
残った3組だったらマジカルラブリーを選ぶ。

まだ予選を観る前は、前回の印象やyoutubeを観た感じからして見取り図が優勝するのでは、と思ったこともあった。彼らのことは好きなのだが、M-1で優勝するにはちょっと軽すぎるというか、インパクトが足りない気がする。

コウテイというコンビについて、名前をよく聞くし賞を取ったということだったが何回見ても好きになれなかった。しかし準決勝・敗者復活戦を観る頃になってようやく彼らのおもしろさがわかってきた。そして彼らはM-1向きである。




2020/11/29

スパルタカス

スタンリー・キューブリック監督

1960年


この映画は高校生の時に夜中にテレビで放送されたのを観た。

たしか前半後半2回に分けられていたような記憶がある。


とても感動して、日記帳のようなものに感動したと書き付けた。

それからレンタルビデオなどで映画はちょくちょく観てきたが、

好きな映画はときかれたらスパルタカスと答えよう、と思うくらいだった。


キューブリックの映画で初めて見たのは2001年宇宙の旅で、

これも高校生の時だが、これはテレビではなく、映画館でリバイバル上映されたのを

友達と観に行ったのである。


スパルタカスと2001年を観たのはほぼ同じ頃だということになる。

2001年はよくわからなかった。


その後時計仕掛けのオレンジ、フルメタルジャケット、シャイニングなど、キューブリック作品を観るたびにすごい監督だなあと感心した。


スパルタカスについては若いころ観て感動した映画だというのはずっと残っているのだが、さてどんな内容だったかと思い出してみると全くと言っていいほど記憶がない。

最後にスパルタカスが十字架についているシーンだけは覚えていたが、

それ以外は何も覚えていない。


今回DVDを買って観たのだが、印象に残ったシーン、セリフ、登場人物などああ、こんなのあったな、というものすら全くと言っていいほどなかった。


さて、内容について。


スパルタカスの反乱がローマ軍に鎮圧され、「スパルタカスという奴隷を処刑すればほかの奴隷は許してやる」みたいなことが言われると、奴隷たちが次々に「私がスパルタカスだ」と名乗るシーンがある。


これは最近テロ事件があった時に「私がシャルリー」だとかいうハッシュタグがつけられるなどと同じようである。


さらに、これは以前にも思ったことであるが、十字架につくスパルタカスはキリストを連想させる。


スパルタカスとキリストは何が違うのか。


今回思ったのだが、


キリストは「私は神だ」と言って十字架についたというのは、もしかして、

スパルタカス以外の奴隷が「私がスパルタカスだ」と名乗り出たのと同じようなことだったのではないか?

2020/09/09

結婚の美学的妥当性 「あれか、これか」5

 キルケゴール著作集の3、

第二部(上)


ずいぶん時間がかかった。

寝る前に寝床で少しずつ読んでいたがようやく読み終わった。


「あれか、これか」は、結婚がテーマである。

3/4を読んだので、もうどういう本なのかは大体わかってきた。


結婚について書かれた本と言えば、スウェーデンボルグの「結婚愛」という本を、

読んだことがある。


キルケゴールもスウェーデンボルグもキリスト教徒の立場から結婚を語っている。


スウェーデンボルグは結婚とは男女にとってあるべき神聖な関係、

それによって初めて神が創造した目的を果たす、みたいなものとして語られていた。


「結婚の美学的妥当性」だけを見れば、ほぼ同様の立場であるが、

「あれか、これか」は自由奔放な恋愛を賛美するような部分もあれば、

婚約者をもてあそぶかのような誘惑者の立場からの部分もあり、


総合的には、「私がどうして結婚することをやめたのか」

という弁明となっている。


醒めた目で見れば、何をそんなにクヨクヨ考えているのか、

といいたくなる。


キルケゴールは結局、結婚することが怖かった。

妻を愛しぬくことができるだろうか?

結婚する資格があるか?


みたいなことを、正当化するために、複数の人格を想定して

1人で議論ごっこをした。


みたいなもの。


さあ、最後の一冊。