2013/04/29

J.D.サリンジャー 野崎孝訳 「ライ麦畑でつかまえて」

白水uブックス。 上半分が青で、下半分がクリーム色で、ピカソの書いた子供の落書きみたいな犬だかなんだかわからない顔の描いてある表紙の本。

これは私が高校生、高校3年だったと思う、の頃に読んで、大変感動したものである。

感動したので友人に貸したのだがその友人はあまりおもしろくなかったらしく、なかなか読まなかったのだがそのうち彼とは疎遠になってしまった。

今回読んだのは、数年前に古本屋で見かけて懐かしいなと買っておいたものである。


サリンジャーの作品は全集を買っていくつか読んだことがあるが、「ライ麦」はちょっと異色で、文体が極端に口語的なようだ。そのため訳者も非常に苦労したらしい。


「ライ麦畑でつかまえて」というタイトルはすごくゴロがよいが、「The cather in the rye」という原題とは少しイメージが変わる。


私はこのタイトルを見たときに、女の子が自分の好きな男の子にむかってあたしを捕まえて、捕まえてごらん、というような意味なのかと思った。


だが、実際は主人公は少年であり、捕まえて欲しいのではなく自分が捕まえたい、という意味だった。

そして捕まえるのは自分の好きな女の子ではなく、落ちこぼれそうな子供達であった。


主人公のホールデン・コールフィールドは、自分の周囲の人間、学校の同級生とか、教師とか、街で出会った人々などに悪態をつきっぱなしなのだが、その悪態のつき方がユーモアがあって、愛情があって、読んでいて心が和む。本気で人を憎んだり否定したりしていないのだ。


久しぶりに読んでみて、文体に違和感や古臭さを感じるところもあったのだが、やっぱり名訳だと思う。

最近、村上春樹が翻訳を出したが、タイトルは「キャッチャーインザライ」だった。「つかまえて」を超えるタイトルが見つからなかったのだろう。

読んでないのだが、野崎訳に満足できなかったらもう原文を読めばいいと思う。


サリンジャーがなくなったニュースは聞いたのだが、野崎さんはもっとだいぶ前に、1995年に亡くなっていた。

2013/04/19

プラトン 「饗宴」

岩波文庫、久保勉訳。

古本屋の店頭で100円で売られていたものだがきれいで読んだ形跡がない。

「饗宴」は非常に有名で、高校生くらいの時に必読図書だとどこかに書いてあったか誰かにすすめられたかしたものであるが、読んだことはなかった。読みかけたことはあるがやめてしまった。

ただ、この中に、「人間はもともと男女が一体だったがそれが切断されてお互いを求め合うようになった」という話だけは知っていた。


私はソクラテスものが好きで、古本屋の100円コーナーなどで見つけては読んでいる。「国家」は気合を入れて新品を読んで、感動したというか恐ろしくなったのを覚えている。


「饗宴」は、ソクラテスを含む何人かが「エロス」について語り合う内容であるが、その様子はそのまま描写されるのではなく、そこに同席した者が思い出して語るというまだるっこしい形式になっている。そういう形式をとった理由については、「序説」というのが40ページくらいあって書かれているのだが途中まで読んでやめて、本編を読んだ。


居合わせた者達が「エロスを賛美しよう」ということになって、順番に語っていく。「エロス」というのは神の名前としてである。有名な、男女が一体だった話をするのはアリストファネスである。これは歴史の教科書に出てくるあのアリストファネスのようである。あらためて聴くと馬鹿げた話で、喜劇作家だからか、と思わせる。ちなみにその昔の人間の姿には男女がくっついたものだけでなく、男同士、女同士がくっついたものもあり、同性がくっついていたものは同性を求めるということも語られている。


ソクラテス以外は皆無条件にエロスを賛美するのだがソクラテスだけは少し違って、「エロスそのものが美しく善いものだ」という考えに疑問を呈する。そして、ディオティマという婦人に聞いた話として、エロス賛美というか、愛、美、善の本質についての話がされる。

訳注によるとこのディオティマという人物は創作だろうということである。しかし、どうしてこうまだるっこしいことをするのだろう、プラトンは。


ソクラテスによると、愛するというのは対象を所有し生殖することによって滅ぶべき者が永遠を手にすることであるという。さらに、それは肉体的なことにとどまらないという。

そしてソクラテスが語り終えた後にアルキビヤデスという若者がやってきて、ソクラテス賛美を語る。その時に、彼はソクラテスと一緒に寝たが何もされなかった、ということを語る。

ソクラテスものを読んでいると少年愛の話が出てくる。アルキビヤデスが何もされなかったというくらいだから、この少年愛には肉体的な行為が伴っていたのだろう。


私はいつも、この少年愛に引っかかる。生殖を目的とした愛よりも、生殖以上のものを目的とした愛の方が高尚である、という考えはわからなくもないが、生殖しないのにその肉体を愛するのはやっぱりただの倒錯としか思えない。


そしてもうひとつ、ソクラテスがただの哲学者、思索者でないのは、「神々」への強烈な「信仰」があることである。それは単なる社会慣習としてのものにとどまらず、下から上への一方的なものでもなく、交流があったようにうかがえる。

キリスト教とはもちろん違う。むしろそれと対立する偶像崇拝である。でも、ソクラテスだけでなく、当時のギリシアの人々は本当に強烈なインスピレーションを得られていたようである。ギリシアでは民主制が実現した。天動説もすでに唱えられていた。文学や彫刻作品は今でも古典とされていて、こうして私がプラトンの書いたものを読んでなるほどと思っている。


文字通り、当時のギリシアは「神懸かっていた」。ただしその神は非常に人間味のあるものであったという。私は「神」という存在が人間の創作品だという考えには同意しない。唯一神が存在すると思っている。ギリシア神話の神々は人間の作り出した創作物であり、偶像だといってかんたんに片付けられるものでもない。

本作品中でエロスは「神霊(ダイモーン)」として、神々と人間のあいだの伝達役のようなものして存在するというところがある。

ダイモーンというのは何かのたとえではなくて、実際に存在するのではないだろうか?ギリシア人達はそれを偶然のせいか環境のせいか知らないが、知覚できたのではないだろうか?

・・・俗に言う、天使である。

2013/04/16

ランボオ 「地獄の季節」「飾画」

岩波文庫の小林秀雄訳。

高校生のときに一度読んだはずだがほとんど記憶がない。

久しぶりに読んでみたが、やっぱり、意味がわからない。

これは散文なので、韻文の詩よりは少し内容が把握できる。でも、やっぱり非常におぼろである。


文体が古めかしく小難しいのは小林秀雄の訳文のせいだろうか?

でも、これは19歳の頃に書かれた物である。少年が書いたと言ってもいい。


一人称が「俺」になっているのだが、日本語の「俺」は少し悪すぎるというか、フォーマルでなさすぎるイメージがある。

フランス語では je であって、英語の I もそうだが、それはおそらく非常に透明というか軽い言葉であるはずだ。それを「私」「僕」「わたし」「ぼく」「俺」などと訳すのは訳者の受ける印象によるだろう。

金子光晴訳の「イリュミナシオン」も持っているが金子は全部「僕」にしているようである。



よくわからないのだが、少なくともランボーは世界を手放しで美しい世界だとは見なしていない。それどころか、何があったか知らないが、自分も、フランスも、何もかもがくだらなく醜く無意味に見え絶望していたようである。まだ十代だったのに。

彼がいくら天才だったとしても、私には小林秀雄の文体は堅苦しく老人くさく思える。

でも、1938年から今まで、改版をしながらも読み継がれていることからしてやはり名訳なのだろう。

もしくは、誰もわからないからなんとなく独特の雰囲気のあるこの訳を読んでわかったような気になっているだけなのかもしれない。

「地獄の季節」の表題だが「飾画(Les Illuminations)」も収められている。こちらの方が分量は多い。

全然意味がわからない。並べられる言葉がなじみがなさすぎて何のイメージも湧かない。「飾画」からして、わからない。「イリュミナシオン」だと、イルミネーションを連想する。

エジソンが電球を発明したのは1879年で、ランボーが25歳のときだ。「イルミナシオン」が書かれた時期は不明だが1875年にはもう詩を書くのをやめていたそうだから、少なくとも現代の電飾のようなものではない。

「地獄」にくらべて、絶望感や反逆性のようなものは薄く、わたしがイメージする一般的な詩に近い。色を表す言葉がよく出てくる。しかし、やはり、ランボーの詩からしっかりとした情景を思い浮かべることはほとんど不可能である。




2013/04/11

映画 「ベニスに死す」

ルキノ・ビスコンティ監督の映画。観たことはなかったが何度もその作品と監督の名前は聞いていた。

原作は岩波文庫の翻訳を2回読んだ。感動するとか、好きな作品というわけではないが、なんだか不思議な、強い印象を持っている。

観たのは早稲田松竹という名画座である。

平日の名画座なのに、ほぼ満席であった。


原作と映画で大きく違うのは音楽である。小説で音楽の効果を使うことはほとんど不可能だが、映画にとって音楽はなくてはならないものである。

私が特に印象的だったのは、流しというか楽団というかチンドン屋のような連中である。彼らがおどけながら演奏するのに、皆がほとんど表情を変えず困ったような顔をしていたのがおもしろかった。


この映画を観ている間中、私の頭の中には「滑稽」という言葉が浮かんでいた。

主人公の行動は滑稽である。少年をつけまわしたり、化粧をしたりするのは原作通りだが、それが小説よりも映画では滑稽さを増していてほとんど見るに耐えないくらいだった。


私はこの映画を大傑作だと賞賛する気にはなれないが、原作の持つ不思議さは再現されていたように思う。

タッジオや、伝染病や、タッジオを追いかけ病気になる主人公は何かの象徴だろうか。


主人公は英語をしゃべり、タッジオの家族はイタリア語を話すがイタリア語のセリフは訳されない。原作でもたしか主人公はイタリア語がわからず少年の名前というか呼び名である「タッジオ(タッジウ)」だけを聞いていたからそれでよいのだろう。




2013/04/02

ボルヘス 「八岐の園」

岩波文庫の「伝奇集」におさめられている。
プロローグと八つの短い話で、映画のオムニバスのような形式である。

ボルヘスを読んだのは初めてだ。
twitterでよく目にする名前なので、読んでおこうとおもっていた。
最近流行っているのだろうか?

一年ほど前に一度買ってあったのだがパラパラとながめただけで読めずにブックオフへ売ってしまった。

先日ポオの詩論を買いにいったときにたまたま目に入ったのでついでに買った。

今までに読んだことのない作風である。

「メタ小説」とでもいうのだろうか。

ときどき、ハっとさせられるようなフレーズが出てくることはあるが、なんともとらえどころのない話である。

登場する人名や作品名は架空のものが含まれているようだが、実在するものも混じっている。

ときどき、全く意味がわからないような文も出てくる。誤訳じゃないか?と思うところがある。

それは翻訳ものにはつきものなので気にせずに読み進む。


ヴァレリーのムッシュー・テストについての言及が何度かあった。

あれと似た印象を受けるところもあった。


読み終えるまで戸惑い続けた。

私は小説でも映画でも、それらが描くものは架空であり想像されたものであるということを前提にして読んだり観たりする。

そのときには、それは架空ではあっても、当然本当に存在しているものとしてのめりこもうとする。

それはすべての芸術の大前提である。


ところが、本作品は、架空の登場人物が架空の存在を語っている。架空が存在してリアリティを得るのも大変なのに、さらにその中で架空の世界が登場するとわたしの想像力が追いつかない。


「伝奇集」というタイトルから予想していたのとは違うものであった。もっとストレートに不思議な話、奇妙な出来事が書かれていると思ったのだが、百科事典のなかの一項目についての話だったり、
架空と思われる作家や作品について語られたりしている。

一度読んだだけではよくわからない作品であった。


2013/03/30

ポオ 「構成の原理」「詩の原理」

ポオというと日本人にとっては詩人というよりも推理(恐怖)小説作家、江戸川乱歩が名前をつけた由来の人というイメージが強いのではないだろうか。私もその一人で、子供の頃少年探偵団シリーズを読んで、その元祖みたいな人だとしてポオを知った。

だがボードレールとかランボーを知ったときにそれらの詩人に大きな影響を与えたとして詩人としてのポーを知った。

最近ちょっとランボーを読んでみているのだが、私は「詩」がいまひとつよくわからない。歌謡曲とかの「歌詞」も、歌うからよいのであって、詩だけで完結する作品というのはなかなかおめにかかれない。

私が読んだ主な詩集は、宮澤賢治と萩原朔太郎で、彼らの詩であればいくつかいいなと思って書き写したり暗唱したりしたこともある。

詩と言えば、シェークスピア、ゲーテ、バイロン、ボードレールなど海外の古典というか伝説みたいな詩人達がいるが、翻訳を読んでもよくわからない。かと言って原文を読んでももっとわからない。

ボードレールはけっこう読んだのだが全部翻訳である。なんとなくボードレールとはどういう男なのかはわかっているつもりだが、特に彼の詩についてはその真価の半分もわかっていないと思っている。


私は詩に対して近寄りがたい思いを持っている。詩とは神秘的なもので、天才にしかかけないものであり、文学の究極が詩であるというくらい、偉大なものだと思っている。だが、それがわからない。小説ならヘタクソでもなんとか書けるかもしれないと思うが、詩は無理だ。

だから、詩とは何か、ということがその秘密が知りたくてしょうがない。

というわけで、ポオが詩について書いたものを読んでみた。創元推理文庫におさめられているものである。

書いてあることは特に目新しかったり感心するようなことはなかった。少なくとも、自分が詩を書くヒントになるようなものはなかった。

「構成の原理」では、自分の The Raven を例にとって、どのように詩を書いたかが語られている。ひらめきとかインスピレーションといったものによって筆にまかせて書いたのではなく、いかに読者をひきつけるかを周到に計算して理詰めで組み立てたと言うことが語られる。 nevermore という単語を選んだのにも、raven を登場させたのにも、約100行という行数にも理由があってのことだという。いろんな芸術家の言うことを聞いていると、常識的なこと、論理的なことを語る人が多い。有名で大家と呼ばれる人ほど、「センス」とか「感覚」というものに頼っていないという印象を受ける。


2013/03/23

西村賢太 「暗渠の宿」

つづいて、「暗渠の宿」という作品を読んだ。 

女と同棲する話だが、やっぱり藤沢清造の話が出てくる。 というか、それが話の中心になっている。部屋の中に、墓標をいれるガラスケースまで作ってしまう。

これほどまでに、一人の人を尊敬できるものだろうか。 これはもはや「学者」ではないか。

2013/03/17

西村賢太 「けがれなき酒のへど」

西村賢太は昭和42年生まれで、私とほぼ同い年である。

芥川賞をとったときに、中卒であるとか風俗がどうだとかいうことばかりがクローズアップされて、そんなことが売りの作家なんかと思っていたが、ほとぼりが冷めてyoutubeで彼が出演したテレビ番組を見ていてその人柄に魅力を感じて、読んでみたいなと思った。

「苦役列車」は見つからなかったが、新潮文庫のコーナーに何冊か彼の作品があった。「暗渠の宿」というタイトルのついた文庫の中に収められていたのが、「けがれなき酒のへど」である。

これは、風俗では満足できない男が本物の恋愛にあこがれそれを実現しかけて裏切られる話であるが、これで終わりかな、と思わせたところで彼が傾倒している藤沢清造という作家についての話に切り替わる。

この文庫は駅の売店で買って電車の中で読み、自宅の最寄り駅に着いたが読み終わらないので居酒屋へ入って読み終えた。

人目もはばからずにニ、三度噴出した。

俗に言う「ダメ人間」を描いている。

ダメ人間を描いたと言えば、私が知っているのは太宰治と町田康であるが、なぜか彼の文体には三島由紀夫的なものを感じた。

私の乏しい読書体験の中から、今回初めて読んだ西村賢太の文体と似ている作家を探すと、三島由紀夫になる。


主人公が風俗嬢に対して抱く勝手な幻想と、それを裏切る女、その描写は思い込みが激しく、自分が勝手に理想化してそれにそぐわない現実を罵倒する感じが三島に似ている。

それが本気なのかふざけているのかわからないところも似ている。


ダメ人間を描いているという点で似ていそうな町田康とは、まったく異なる。

町田の方が、さらっとしている。現代的である。一般受けするだろう。

西村の描き方は、自虐的とか露悪的とかいうのではなく、なんというか、超現実的な感じがする。

主人公をだます風俗嬢像は、非現実的で、想像の産物感が強い。



そういう、想像力過剰なところが、三島由紀夫っぽいと感じるところである。

2013/03/16

Bob Dylan "Christmas in the heart"

Bob Dylanが、数年前に出したアルバム。 クリスマスソングの定番がおさめられている。 

日本人でも皆知っているような曲ばかりである。 子供でも知っているような曲もある。

 多くのディランファンがこのアルバムの発表に戸惑ったことだろう。 「まあ、たまにはこういうのもいいか。チャリティーだし。」という風に片付けた人が多かっただろう。

 しかし私はこのアルバムをそんなふうに、「遊び」で出したアルバムというふうには片付けられなかった。 最近のディランは声があまりに汚く、ほとんどメロディーというものを無視していたが、 このアルバムでは久しぶりに彼がメロディーを歌っているのを聴くことができた。

 それから、若い女性、男性のコーラスと競演している。 これも普段はしない事だが、非常によく調和していた。

 ボブディランのアルバムのなかで最高傑作を一枚選べというのは愚問であるが、 私はこのアルバムを選ぶことがそれに対する唯一のまともな答えではないかと思う。

 

2013/02/24

ヘッセ 「シッダールタ」

今朝目覚めて、朝食をとろうとして、飲みすぎた翌日によくそうなるように、牛乳が飲みたくなった。冷蔵庫から牛乳をとりだし、味噌汁の椀にそそいで飲んだ。飲みながら、仏陀がスジャータからおかゆだか何かをもらって悟ったという話を思い出し、『仏陀が悟ったことはこの牛乳のおいしさのようなものか』と考え、「シッダールタ」を思い出した。

新潮文庫の高橋健二訳を持っている。平成六年四十五刷のものである。一度読んでいるはずなのだが、内容はほとんど覚えていなかった。「シッダールタ」というのは仏陀のことかと思っていたが別人で、ブッダは「ゴータマ」として登場する。シッダールタは覚者と言われたゴータマに帰依せず、世俗で遊女や商人や渡し守と交わって過ごす。ともに修行していたゴーヴィンダはゴータマに帰依するが、老年になってシダールタと出合った時に悟りの境地に達していたのはシッダールタの方だった・・・。

禁欲や修行によっては悟りに到達できないというのはブッダについての辞書的な説明でも書かれていることである。ブッダは贅沢な暮らしをして家族も持った後に出家し修行したのちに悟った。シッダールタは修行していたが俗世間に戻って俗世間で悟りを得た。シッダールタは子を作るのだがその子もシッダールタで、ゴータマもシッダールタであるから、この作品には3人のシッダールタが登場する。

主人公のシッダールタは最後には釈迦の悟ったのと同じような境地に至ったかのように描かれている。ヘッセは、釈迦のような人物は一人の天才宗教家ではなく、同じような「悟り」に至った人が何人もいたと考えたのではないだろうか。釈迦が家族を持って裕福に暮らしており、苦行では悟りを得られなかったことからも、人はどんな生活をおこなってもそれが修行となり悟りに至れる、というように考えた。

おそらく、多くの人は悟りとか仏教というものについて、そのように考えていると思う。つまり常識的な仏教観である。

私の見解は異なる。やはりブッダは一人の天才宗教家であった。彼のおこなった修行、断食などの苦行はやはり悟りに至るために必要なことであった。それも、本作品の主人公のように修行の身から俗世間に戻るのと、俗世間から出家して修行をするのとでは全く意味が異なる。俗世間で欲望にまみれて生活することも苦行であり修行である、というのは聞えはいいが、やはりそれは煩悩であり堕落であって、悟りに至る道ではない。人間の欲望というのはやはり恐ろしいものだ。

「カラマーゾフの兄弟」でも、修道院にいたアリョーシャが俗世間へ出る。そしてそれは長老がすすめたことでさえあった。そもそも作家になるような人が俗世間の欲望を断って修道院で過ごしたり断食することをよしとすることはできないだろう。「カラマーゾフ」でも、アリョーシャは苦悩しながら真人間であり続ける。それが人のあるべき姿である、というのが常識人の考え、というか、そのように考えないと自分という存在を肯定できない。

私には「俗世間で生きることこそ修行である」というのは非常に危険というか虫のいい考えに思えてならない。

ちなみにこの作品を読もうと思ったのは、Pete Townshendがこれにインスパイアされて曲を作った、というのを聞いたからである。

2013/02/11

また本が読めなくなった。

読めない。何を読んでも数ページで飽きる。

モーパッサン「女の一生」、ホーソン「緋文字」、「ノルウェイの森」、ソルジェーニツィン「マトリョーナの家」、カミュ「ペスト」、三島由紀夫「盗賊」・・・・

こんなところを読みかけては挫折しました。

でも、基本的に私は「1ヶ月に1冊読む」とか義務付けるのは嫌いだ。とくに小説とか詩とかいうのは、読めないときはいくら努力しても、辞書を引いたりしても入ってこないが、読めるときはすーっと入ってくるものだ。それなりの経験とかこころの準備みたいなものが必要なのだ。

読めない本を読んで、つまらないとか、意味がわからないとか感じることにも意味があって、自分に足りないものがあると悟ったり、自分の状態がよくない、何か悩みがあるとか迷いがあるとか、やるべきことがあるとか、そういうのを知るきっかけにもなるのではないか。

おもしろそうだからと思って買ってはみたものの読めずに本棚に置いておく。あれをいつか読みたい、読まねば、と思いながら生活することは自分の生活を多少変えると思う。私にとっては魔の山がそうだった。


あとは、相変わらず「不朽の名作」みたいな小説しか読まないのもどうかなと思う。もっと実用的なものとか、話題の本とかも読んだほうがいいかなと思う。

でも読書って、音楽や映画もそうかな、やっぱり別天地を味わえるのが醍醐味ではないだろうか。みんながそれを読んで楽しんでると思うと、それだけで私は敬遠したくなってしまう。

2013/01/21

センター試験をやってみた

「詳説 世界史 B」とZ会問題集アプリで結構勉強したので力試しにセンター試験をやってみた。世界史Bは64点だった。7割はいける、あわよくば8割くらい、それくらいだったら大学受験してみようかと思っていたがそう甘くはなかった。でも代ゼミの予想平均点は61点なので、まあよしとしよう。確か現役のときは平均を下回っていた。

ついでに他の科目もやってみた(カッコ内は代ゼミの予想平均点)。

英語 180 (122)、国語 113 (107)、数学(数I・数A)  22 (57)、生物 37 (66)、世界史 64 (61)

英語と国語は10分くらい時間をオーバーしている。理科社会は2科目ずつやるのか?今日はつかれたのであしたにする。英語はすばらしい。TOEICよりやや易しいくらいの難度か。国語は得意科目だったのにショックだ。古文がほとんどチンプンカンプン、漢文もすっと読めない。数学、生物がひどいがまあ仕方ないか。生物は現役のとき選択した科目で8割はとれたのだが、これもほとんどチンプンカンプンだった。

2013/01/17

詳説 世界史 B

高校の世界史の教科書である。私は高校時代受験科目に世界史を選択したが成績はよくなかった。しばらく前に買ってあった山川出版の「詳説 世界史B」を、iPhoneアプリのZ会問題集をときながらとりあえず全部読んだ。アンリ4世とかジェームズ1世とかシャルル何世とか、こんなこと覚えてどうするんだ、というのは受験生だったときと同じ感想である。

あらためて感じたことは「朝(王朝)」というものの重要性である。要は、血統のことである。それが、ほとんど国名と同様の意味を持っていた。ただそれは昔の話で、次第に王というものは廃されていき、多くの国は「共和国」となっていった。「教科書史観」では、それが当然の流れ、王政というのは古い制度とみなしているところがあり、また歴史を専門としていない一般の人にもそういう認識があるだろう。イギリスやフランスで起こった革命はすばらしいことである、という。

私はフランス革命とかナポレオンとかアメリカ独立というところではあまり心が躍らない。私は西アジアとかモンゴルあたりのそれほど大きくない得体の知れない国々の興亡のあたりがわくわくする。勉強のために覚えるには厄介なところだが。

アメリカと日本は普通「共和制」とはいわないが、広義には共和制と言ってもいいのではないだろうか。要するに「王様のいない国」である。日本の天皇はもはや王様ではない。

こないだ読んだ聖書に関する記述は、モーセ、ダヴィデ、イエス、パウロ、ペテロくらい、合計で10行くらいだろうか。

「戦争と平和」に関連するのはアウステルリッツの戦い、三帝同盟、アレクサンドル1世など、5行くらいかな。


1、2週間くらいしか読んでないのにボロボロになった。

情報量はどれくらいなのか。字はけっこう大きい。
1ページ26行x33文字、355ページ、30万4590字だが、図や写真などが多いので8割くらいとして約24万字。

私の持っている文庫本で同じくらいの字数のものを探してみたら、三島由紀夫の「春の雪」が概算で31万字だった。「世界史の教科書なんか読んでらんない」と思っている人も、文庫本1冊程度の情報量であると考えると、たいしたことはないと思えるのではないか?