2025/09/28

No Country for Old Men (2007)

ジョエル・コーエン、イーサン・コーエンが監督、脚本

原作は同名の小説でコーマック・マッカーシーという人が2005年に書いたもの。

話題になったので見ようかなと思ってみずにいたが、もう18年も経っていた。

youtubeでこの映画が紹介されていて引き込まれて全部見たくなった。

DVDを買って観た。

シーンは残酷だったり不気味な内容が多いのだがとにかく映像が美しいと感じた。

構図や光の具合、時代は1980年ころのようだが、車や家具なども落ち着いているというかギラギラしていない感じがよい。

ストーリーは正直よくわからないし、何が言いたいのかもよくわからない。

No country for old men というタイトルの意味もよくわからない。メキシコとの国境を越えるシーンで少し関係あるのかと思ったくらい。

感動するところは全くない。

映像の美しさと説明的でないところが心地いいなと感じるくらい。

2025/09/22

Hotel California

Hotel Californiaという曲は有名でいい曲だとは思うが、歌詞の内容がよくわからない。曲調と、断片的には聞き取れるちょっと物騒というか不気味というか、そういうフレーズからして明るい内容ではない、というのはわかるのだが、何が言いたいのかよくわからなかった。

作詞はドン・ヘンリー、作曲はドン・フェルダーと別人である。

よく見るMVでドラムをたたきながら歌っているのがドン・ヘンリーで、ドンフェルダーはネックが2本あるギターを弾いている人で、たぶんホテルカリフォルニアでソロを弾いている。(後で確認したらソロは二人で弾いている。もう一人はジョー・ウォルシュ。というか、ソロはジョー・ウォルシュが弾き始めて途中からドン・フェルダーが加わっている。)


On a dark desert highway

Cool wind in my hair

Warm smell of colitas

Rising up through the air

Up ahead in the distance

I saw a shimmering light

My head grew heavy and my sight grew dim

I had to stop for the night


ホテルに泊まることになるという導入部。

ここでまずわからないのが colitas

私が持っている3冊の辞書のどれにも載っていない。検索すると砂漠に生えている植物の名前らしいが、「大麻」の隠語として使われることもあるらしい。

洋楽でクスリのことを歌うのは珍しくないが、今まで聴いた曲で colitas という語が出てきたのを見た(聴いた)覚えがない。

映画や小説などで「コリタス」という語が出てきたのも。


コリタスはコリタスとして、大麻の隠語であるとして、それは別にいい。1976年のアメリカの曲に大麻が出てきても驚くことは何もない。

コリタス以外の歌詞は、特に難しいことも、特別素晴らしいところも、感動するようなことも、わくわくさせられるようなこともない。

むしろ、desert highway, shimmering light, my sight grew dim, stop for the night など、そんなに英語の詩に詳しいわけではないがよく目にする、凡庸といっていい語句、月並みな韻の踏み方という感じがする。


There she stood in the doorway

I heard the mission bell

And I was thinking to myself

"This could be Heaven or this could be Hell"

Then she lit up a candle

And she showed me the way

There were voices down the corridor

I thought I heard them say


「彼女」が登場する。mission bellとは何か?

なにかしらの鐘の音だろうとは思うが、調べてみるとそんなによくある、使われるようなものではないようだ。

植物の名前でもあるらしい。「聞いた」とあるので植物ではないだろうと思うが、もしかしたら洒落なのかもしれない。

次に、「天国か地獄かと考えた」とあるのだが、唐突かつ大げさである。

まだホテルの入り口で女性が一人現れただけなのに。

これも「bell」と「hell」で韻を踏ませただけで深い意味はないのではないか。

「彼女」がろうそくを灯して道を示す。

廊下に声が聞こえる。


she show me the way

I heard them say

これも月並みなただのごろ合わせでは。



"Welcome to the Hotel California

Such a lovely place (Such a lovely place)

Such a lovely face

Plenty of room at the Hotel California

Any time of year (Any time of year)

You can find it here"


「ホテルカリフォルニアへようこそ」

lovely place

lovely  face


lovelyは日本語でも「ラブリー」として使われるが、もっぱら若い女性などがかわいらしい、という意味でつかわれる。

日本語で「ラブリーなホテル」ということはないし、英語でもnice placeとかいうのが普通なのではないか?

そして lovely face

ん?なんのこと?誰の顔?「彼女?」もしかして人の顔じゃなくてホテルの外観みたいな意味?


たくさんの部屋がある

1年のいつでも見つかる。何が?部屋が?「ここで見つかる」だから、ホテルが見つかるのではない。ホテルにある、部屋ということだろう。


よくわからない詩だ。


Her mind is Tiffany-twisted

She got the Mercedes bends, uh

She got a lot of pretty, pretty boys

That she calls friends

How they dance in the courtyard

Sweet summer sweat

Some dance to remember

Some dance to forget


この辺から、なんとなく「意味」が出てくる。

作者が言いたいことがなんなのかがだんだん見えてくる。

Tiffany-twisted というのは、ブランドのティファニーで心がねじ曲がった、要は「ティファニーかぶれ」みたいな意味らしい。この言葉も調べてみると一般的なものではないようで、「ホテルカリフォルニアに出てくる語句」という情報が見つかる。

車のベンツは正しくは「Benz」であるが、これは意図して、「bends」としているようだ。つまりこれも「曲がった」という、悪い意味。

彼女には友達と呼ぶ「かわいい少年たち」がいて、踊っている。

まあ、バカな尻軽女、なんでしょう。


So I called up the Captain

"Please bring me my wine", he said

"We haven't had that spirit here since 1969"

And still those voices are calling from far away

Wake you up in the middle of the night

Just to hear them say


captainを呼びワインをくれという。キャプテン?

ホテルの支配人みたいなことだろうなとは思うが、調べるとアメリカで「ホテルのボーイ長、レストランの給仕長」みたいな意味でつかわれるらしい。これは特に深い意味はないか。

そしてそのキャプテンが「その酒は1969年からない」と答える。

この、1969というのは意味深で、いったい1969年に何があったのか?と思わせるが、

説明はない。


あと、wineをくれといっているのにわざわざ that spiritと言っているのは、「魂」とのダブルミーニングだという人がいるが、そうだとしても1969年に何があったのか......


"Welcome to the Hotel California

Such a lovely place (Such a lovely place)

Such a lovely face

They living it up at the Hotel California

What a nice surprise (What a nice surprise)

Bring your alibis"


ホテルカリフォルニアはlovely place, lovely fase

live it up というのは贅沢に暮らす、大いに楽しむ、という意味らしい。


What a nice surprise

Bring your alibis

ここも唐突かつ無理やり感がある。


bring your alibisとは?

これも一般的な言い回しではないように思う。「アリバイ」とは日本語になっていて刑事ドラマなどで犯人と疑われたものがそのとき別の場所にいたことの証明という意味で使うが、英語でもそれでよいようだ。

そうだとしてもピンとこないのだが、ホテルカリフォルニアで贅沢に遊ぶというのはあまりよいことでは、大っぴらに言えるようなことではないから、うまくごまかして、というようなことか。


Mirrors on the ceiling

The pink champagne on ice

And she said, "We are all just prisoners here

Of our own device"

And in the master's chambers

They gathered for the feast

They stab it with their steely knives

But they just can't kill the beast


天井の鏡、ピンクのシャンパンに氷

「贅沢に遊ぶ」の描写。


次に彼女が言った言葉がまた意味深というか意味不明

「私たちは我々自身の装置の単なる囚人である」

このdeviceは装置ではなくて、計画やたくらみなどの意味であって、

要は「自業自得で欲におぼれた」ということらしい。


次も物騒だが意味不明


主人の部屋に祝宴のために集まり

ナイフで刺したが野獣は殺せない


steely knivesは鋼鉄のナイフという意味だが steelyが Steely Danを意味しているという説あり

Steely Danという名前は聞いたことはあるが、どういう人か、イーグルスとどんな関係があるのかはわからないが、そんなめんどくさいことするかなと思う。

そして、ナイフで刺すとあるが何を刺すのか。これもわからない。

こういうよくわからない、曖昧というか、意味が成り立たないフレーズが目立つ。


まさか集まった人同士でナイフで刺しあうというわけではあるまい。


Last thing I remember, I was

Running for the door

I had to find the passage back

To the place I was before

"Relax," said the night man

"We are programmed to receive

You can check out any time you like

But you can never leave"


さすがに「私」はホテルから逃げようとするが、

「チェックアウトはできるけど去ることはできない」

という理不尽なセリフで終わる。


説明不足で唐突で理不尽でモヤモヤしたまま終わる。

曲調は強い感傷的なものがあるのに、それと結びつかない。

この曲が名曲だ!と言い切れないのはそういうところにある。


まあ、推測するに、「ホテルカリフォルニア」はCaliforniaという地域を象徴するもので、カリフォルニアで経験したこと、カリフォルニアの文化や習慣、カリフォルニアの人々(特に女性)に対する幻滅や哀れみみたいなことを伝えたかったのかな。

カリフォルニアとか西海岸という地域はアメリカの中でも独特の文化があるときく。


ビートルズやボブディラン、ザフー、などはどういう人たちでどういう経験をしてきたかなどをある程度知っているからこの曲はこういうことかな、というのがわかるけど、イーグルスについては全くと言っていいほどしらないので、推測のしようもないのだが。

そして、イーグルスについて興味を持って、違う曲も聞いてみようとか、メンバーはどういう人たちでどういう経歴なのかとか興味を持つこともなかった。


ネットにはいろんな解釈が、大げさな深刻な解釈をしている人が見られるが、本人たちのインタビューで単なる語呂合わせだ、みたいなことを言っているのもあるし、おそらくそんなに大した意味はない。

意味がないのは別にいいのだが、意味があるかのように見せかけるのはよくない。

イーグルスはメンバー間の不和があって、解雇とか訴訟とかあったらしいが、この曲だけを見てもなんとなくバラバラな感じがうかがえる。

そして、歌詞の内容を改めて確認してみて、この曲を聴いて何か感慨にふけるとか、感傷的になるとか、ようするに音楽として感動できるかというと、どうしてもできない。カリフォルニアに対する愛情も、哀しみも、そこで出会った人々や経験への追憶のようなものもない。ただの苦く忘れたくても忘れられない暗い影みたいな、そんなものがイメージされてしまう。


2025/04/27

エリッククラプトン 武道館 2025/4/26

彼が何度も来日していたのは知っていたが、観たのは初めて。

特に好きなアーティストというわけではないが、好き嫌いは別にみとめざるを得ないような存在だった。

だから、彼のめぼしいアルバムはだいたい聴いていて、今回のライブでも知らない曲はほとんどなく、もう聞き古した聴きつくした感さえあるような曲ばかりだった。


土曜日の18:00から。

天気はあまりよくなくて、そろそろ出かけようかというときに強い雨が降った。と思ったらすぐやんで、駅で電車を待っていたら虹がかかっていた。

武道館の最寄り駅は地下鉄の九段下であるが、駅へも駅から武道館へもあまりアクセスがよくないので、市ヶ谷から歩いた。

会場に着いたのは開場時刻の5時ごろだったが、すでに大勢の人がいた。さすがに年齢層が高い。自分と同じかそれ以上の人たちばかり。服装、髪型、表情も、地味というか質素というか、穏やかな空気に満ちていた。

最近は荷物検査などが非常に厳しいのだが、「荷物は自分で見せてください」という貼り紙がしてあるだけで、チケットを見せ、ちいさい肩掛けかばんを持っていたが特に開けることもせず開けてくださいと言われることもなく、中に入れた。拳銃でさえ持ち込めただろう。


席は東の2階だった。ステージに向かって右30度くらいのところ。演者までの直線距離は50mくらいだろうか。


クラプトン以外の演者は、白人の左利きのギターが一人、黒人のベースが一人、黒人のキーボードが一人、白人のキーボードが一人、黒人のドラムが一人。誰も知ってる人はいなかったが、ベースはネイザン・イーストという有名な人らしくて、彼がボーカルをとる曲もあった。

あと、黒人の女性コーラスが二人いた。

ステージの上には大きなディスプレイが3枚くらい設置してあり、表情や手つきなどを見ることができる。ほとんどそっちを見ていたかもしれない。時々、せっかく生で観てるんだからもったいないとステージを観たりしていた。


前評判はネットでなんとなく見ていたのだが、思っていたよりずっとよかった。

そして、演奏を聴いて彼の姿を見ながら、エリック・クラプトンとはどういうミュージシャンなのか、と改めて考えた。

彼はまずギタリストであるが、シンガーでもある。ギターを弾きながら歌うミュージシャンはたくさんいるが、彼ほど「歌える」ギタリストは稀である。

そして、彼のギタープレイであるが、彼は主にブルースを演奏する。今回のライブでもロバート・ジョンソンなど、いい意味で「ただのブルース」を何曲か演奏していた。

私は少しギターを弾くが、彼のプレイを真似しようと思ったことは全くと言っていいほどない。観たり聴いたりしていて、うまいのだろうなとは思うが、すげぇ、とか、素晴らしい、とか、天才だな、とか思うこともない。

彼のギターソロはなんというのか、雑味やエグみみたいなものがなく、きめ細かく自然で無理がなく体に染みわたるようなものに感じる。

若いころはおそらくそれが退屈だと感じてあまり好きにはならなかったのだろう。




2025/04/13

龍三と七人の子分たち

武の映画で唯一(たぶん)観ていなかった「龍三と七人の子分たち」を観た。

別につまらなそうだからと見送っていたわけではなく、公開されたことを知らなかったのだ。

だいぶ前にこの作品のことは知ったのだが、ようやく観た。

座頭市やアウトレイジは話題になったがこの作品はあまり話題にならなかったように思う。だって公開されたのを気づかなかったくらいだから。


この作品は基本的にコメディであるが、やはり武の映画に暴力や残酷なシーンは欠かせないのか。でも本当に最小限に抑えられていた。

年取ったヤクザの悲哀みたいのを前面に出されるのもつらいので、それも抑えられていたのはよかった。


この映画がどういう評価をされているのか知らないのだが、たぶん「中途半端」みたいに感じる人が多かったのではないだろうか。

漫画を読んでるようなものと受け取って楽な気持ちで観れば、面白い映画だと思う。


2024/12/24

NとW

NとWの間に何があったのかは推測や想像ですらまともな情報がほとんど見られない。

わかっていることはNとWが食事をしたこと、WがPTSDになってテレビ局を退職したこと、Nが9000万円を払ったことくらいである。

男女間のことで非常に高額な示談金であることからまず、性的な暴行があったのでは?と考えたくなるのだが、どうもそうではないような気がしてきた。

NとWのこととWの退職のきっかけになったことの関連は今のところあきらかになっていないが、ここではそれが原因であると仮定して考えてみる。

気になって仕方がないのでFRIDAYの有料記事を読んでみたが、ほとんど具体的なことは書かれていなかった。ヒントになる発言としては以下のようなものがある。


・その時点で「あぁ、もう私はダメだな」と悟った

・通院しないと、死を選んでしまうと直観した

・突発的に起きたトラブル

・その時の気候(雨)や最寄り駅、匂い、食べ物を想起するとパニック発作が起きる

・PTSDにした人たちのせいで人生を奪われることが悔しい

・なんとか立ち直ってやろう、とその場所に足を運んだりした

・会社にも関係するトラウマ

・警察に被害届を出すことも考えたが踏みとどまった

・当時の日記に「自分に正直に生きれば良かった」と書き記している


相当のショックを受ける出来事があったようで、性的な暴行を受けたことが真っ先に想像されるが、一人の男に性的な暴行を受けたというような単純なことではないようだ。

ただ、何かに逆らえずに本当は嫌なのに我慢して受け入れて傷つくようなことをされてしまった、警察には言えなかった、となるとやはり性的なこと以外に思いつかない。

しかし、そうだとしたら「人たち」とか「会社にも関係する」というのはどういうことなのか。会社ぐるみの性的な接待の強要なのか?

でも、2023年と言えばNもWもテレビ番組に常時出演していて、今さら接待をするような関係ではないと思うのだが....

そして、結局退社はしたものの、復帰して働き続けようという意思もあったようだ。もし会社ぐるみの性的接待を強要されたというようなことであれば、即退社して戻ることなど考えられないだろう。

会社としても、彼女が嫌がるとか拒否するとかいうことは容易に想像できるはずだ。会社としての命令だからあのタレントに抱かれろ、で何事もなく終わると考えていたとも思えない。

それとも、テレビ局のアナウンサーになるような女はそういうことにハイハイと従うような女ばかりで彼女が異例だったのだろうか...






2024/12/15

砂の器(1974)

朝倉海の試合を観るためにU-Nextのお試し契約をした。すぐに解約する予定だがどんなものが観れるのかなと映画のラインナップを見るとほとんど興味がわかないが、「砂の器」があった。

何度かドラマ化もされているが、映画が強烈すぎてどれも観ていない。観ようという気にもならなかった。あの作品がテレビにおさまることなど想像もできなかった。

原作は映画を観た後に当然読んだが、予想はしていたが映画のような劇的なドラマではなく最後まで読んでいない。

私が初めて見たのは、VHSテープで、1988年頃である。その時、私はその映画のことを知らなかった。ある人にすすめられて観た。

殺人事件が描かれているのだが、映画は犯人探しというより、人を殺すということに至った背景や動機(それも心情的な)などが描かれ、「犯人」を犯罪者とし悪人としてとらえそれを憎むなどという感情は観た人は抱かないだろう。

「砂の器」という題名は、殺人を犯した男の人生がそれのようにもろくはかないものであったというような、ある意味男の人生を批判するような意味があるように思う。しかし映画では先ほど言ったように男を殺人者として裁くような描き方はまったくされていない。


圧巻なのは、男の犯行であることが刑事によってつきとめられて、逮捕状を請求するために説明する場面とそこに重なるコンサートと男の人生の回想シーンである。

男の戸籍が偽装されていること、そして男の本当の生い立ちが説明される。しかし「想像するしかない」というセリフがあるが緻密な論理による推理よりもその「想像」で描かれるなんの証拠もない回想シーンこそがこの映画のクライマックスでありテーマとなっている。

何度か観ているが、今回は初めて見たときの自分の人生のことを思い出すなどしたこともあって今まで見た中で一番泣けた。

そして、あまりに心を打つストーリーなので作り話ではなく実際にこういう事件があったのではないか?と思ったがどうやら実話ではないようである。

この映画は音楽や推理小説という原作をドラマに大胆に再構成しているところなどに感心するのだが、各シーンの撮り方もとても丁寧で出演者も豪華でどうしてこんなに気合を入れて撮ったのだろうと思った。

2024/12/06

ソナチネ

1993年

公開されたとき私はまだ中学生だった。武がラジオでソナチネが全然客が入らなくて打ち切りになった、と言っていたのを聞いた覚えがある。

私がソナチネを観たのはいつだったかよく覚えていないが、「その男」よりは先に観た。HANA-BIが公開される前だったかな。キッズリターンを観た後くらいだろうか。

ソナチネは武の映画の中でも評価が高く、武自身も思い入れがあるらしい。


映像は美しく、静かな雰囲気の中で淡々と描かれるショッキングなシーンも印象的ではあるが、私はこの映画があまり好きではない。

武の映画について「暴力」とか「バイオレンス」とか言われるのだが、それはほとんどが拳銃によるものである。

私は拳銃を打ち合ったり拳銃で自殺したりするシーンが好きではない。

実感がないし、一般の人間はまず拳銃を使用することはないし使用されているのを観ることすらまずない。

それこそ映画やドラマ、せいぜいがニュース映像くらいである。

映画なので、好きな世界を描き好き放題なストーリーにして、現実にはありえない世界をつくりあげてよく、そうすることが映画の醍醐味なのかもしれないが、やはりあまりに非現実的すぎるとついていけなくなる。


観るのは3回目か4回目かくらいだと思うが、今回一つ気になったことがあった。クレーンに吊るされた男を海に沈めたり引き上げたりするシーンがあるが、ロープでしばってクレーンに吊るした人間をあのように海中に下ろそうとしても、あんな風にずっぽりとは沈まないのではないか?

調べると「肺に空気をいっぱいに吸った状態なら浮く」ようだ。いっぱいに吸ってはいなくても生きている人間の肺には空気が入っているから、たぶん浮くか沈むかぎりぎりのところだと思う。

男の体重が70kgくらいだとして、70kgの肉の塊をクレーンで吊るして沈めたらどっぷり沈むだろうが、人間の体はそうならないと思う....


どうでもいいことだが、そんなことを考えてしまう。

ただ、武はそれをわかった上であえて撮ったのではないか、とも考えた。それどころか、本当はこんな風にならないけどそうなっても違和感がないような映像にして客をある意味「欺く」ような意図があったのかもしれないとさえ思った。


途中でいったん止めて、翌日残りを観たのだが、「あれ、武の役ってどういう役だっけ?やくざ?元やくざ?一般人?」とわからなくなった。

この映画はクールでうっとりするようなシーンはあるのだが、感動ということになるとほとんどない。芸術に道徳や善悪は関係ない、というのはわかる。私もそういうものを主張するものは嫌いである。

しかし、やはり映画というものには人間のドラマというか、人情というか、そういうものが欲しい。


先日Brotherを観て「なんでおもしろいと思ったのかわからない」みたいなことを書いたが、今回5本ほど武の映画を観て、涙が出たのはBrotherだけだった。

Brotherは多分技術的には他の作品に劣るものなのかもしれないが、私の心には響く何かがあった。だから、映画館で観たときに「最高傑作だ」とまで思ったのではないかと、「その男」やソナチネなどを見た後に、気づいた。



2024/12/04

その男、凶暴につき

1989年の作品

当時話題になったがそれは「あのビートたけしが映画を撮った」ということからであって、映画そのものがどうこうという話題になり方ではなかった。少なくとも私はそうとらえていた。

興味は湧かず、劇場に行くこともレンタル(当時はまだVHSだったと思う)することもなかった。

その後武は映画を撮り続け、次第に評価が上がっていき、いつの間にか巨匠と呼ばれるような存在になっていった。私がこの映画をようやく観たのはその頃だ。

今回Bluerayディスクを買ってみたが、見るのはその時以来2回目だと思う。断片的にはどこかにアップロードされていたものを時々観ていて、あるいはこの映画に関するコメントだとか誰かが語って(ほめて)いるのを何度も観ている。

武は1947年生まれなのでこの時42歳くらいである。

当時の武をテレビで見ていた私からするともうオジサンであったが、今見ると脂が乗りきっているというか、若いなぁとすら思う。


この映画は武のフライデー襲撃事件があったせいで監督やら脚本やらいろいろ変更されたものだったらしく、純粋な北野映画ではない。

残酷さ、クールさ、説明的な場面やセリフの少なさなどは武らしさもあるのだろうが、初めての映画だから、たぶん誰かしらからかの影響を受けてはいるのではないだろうか。

最近武の映画を続けて観ているのだが、武はどうやって映画の撮り方、演じ方などを学んだのだろうと考えた。

武がどういう人生を送ってきたのかはいろんなところで語られているが映画というものにそれほど熱中していたというようでもなさそうだ。多才でいろんなことに才能がある人ではあるようで、映画もなんでもできてしまったうちの一つなのかもしれないが、それにしては飛びぬけているように思う。


2024/12/01

キッズ・リターン

1996年バイク事故から復帰したころに作られた映画である。

新聞の夕刊に載っていたレビューで絶賛されていたのを覚えている。

公開時に新宿の映画館で観た。今回はBluerayディスクを買ってパソコンで観た。

安藤政信の演技の評価が高く賞もたくさん獲ったようだが、私はマーチャンを演じた金子賢もいい演技をしていると思う。

この映画はサクセスストーリーの逆のようなエピソードが並んでいる。挫折とか不運とかいうようりも、自ら失敗するような道を選ぶような、自滅するようなエピソードである。

ボクシング、タクシー運転手、お笑い芸人と、武自身が経験したことが描かれていることもあって、そのエピソードもリアリティというか説得力がある。

また、バイク事故の経験も投影されているだろう。


この映画で失敗に終わらないのは、お笑い芸人を目指す若者たちと、最後にジムに入った3人組のリーダーのような男(花山?)のエピソードである。

花山はシンジやマサルが挫折した後、ボクサーとして成長し成功しているように描かれるのだが、あのシーンの意味が当時はよくわからなかった。

今回観て感じたのは、このボクサーもきっと自滅するように挫折するのだろうな、ということなのだが、もしかしたら、こういうお調子者みたいな奴の方が成功するということなのかなとも思った。

そしてお笑い芸人を目指すもの達は、派手な成功をおさめている様子はないが地道に努力してこれから花開いていくのではと思わせる。

彼らは武のお笑い芸人としての成功を表現しているのだろうか。自分の周りで破滅していった者たちとそれを見ながら成功していったという。


この映画は青春を描いているが甘酸っぱいとかほろ苦いというものではなく、もっと辛く苦しすぎるものだ。

マサルとシンジという「失敗した」二人が、「まだ始まってもいない」というのは、挫折してもくじけないという希望や不屈の心というよりは、もっとむなしい虚勢であり、あんなにいろんなことがあったけど何も残っていないという絶望にすら感じる。

いい映画だとは思うが、この映画に表現されていること、武が表現しようと思ったことはそんなに簡単に理解できるものではないと思う。もしかして、武自身も各シーンがどういう意味なのかはわかっていないのではないだろうか?

2024/11/30

Brother

2000年の作品。公開後すぐ観に行ったがたしか映画館は空席が目立っていた。

私は大変感動して、武の最高傑作だと思ったほどだった。

しかし周囲の人たちやネット(今ほどではないが2ちゃんねるなどで口コミ的なものはわかった)でも評判は今一つのようだった。

武映画が急に見たくなって、彼の映画はamazonなどで観られないので思い入れのある作品のディスクを5枚買った。

その中で、Brotherについては強い印象はあるものの、何度も観たとか、何がいいとかがあまり思い出せなくなっていたので最初に観た。


半分くらい観た時点で、「あれ、こんな薄っぺらい映画だっけ」という感想を持った。

なんでこんな映画に感動したのだろうと。


残酷なシーンがやはりあるのだが、この映画には怖さがない。

日米合作のため、アメリカ側の意向が入ってあまりおどろおどろしかったり、暗示的すぎることが避けられたのだろうか?

山本(武)の愛人役の女優のことはよく覚えていたが、名前も知らなかった。ネットで検索しても彼女について語っている人は見当たらず、エンドロールで名前を探すと 

Marina     Joy Nakagawa

とあって、検索するとわずかな情報が見つかった。「硫黄島からの手紙」などにも出演しているそうだ。



2024/11/27

アウトレイジ

最初のやつ。公開時に劇場で見た。今回はパソコンでDVDで観た。

武映画は好きだが、アウトレイジはあまり好きではない。劇場で観た後、がっかりしたような記憶がある。


だが、ある時youtubeか何かにアップロードされていた冒頭のボッタクリシーンを見て、引き込まれた。ボッタクられたと思いきや逆にボッタクるという展開などが。

最終的にはボッタクられたやくざは殺されてしまうのだが。

三浦友和、杉本哲太など、懐かしいメンツが登場していて、このとき彼は何歳だった、などと確かめながら観ていた。

アウトレイジが好きではないのは、残酷なシーン、グロテスクなシーンが多いのと、ハラハラドキドキのやったりやられたりの展開がなんというか、ゲームっぽいというかエンターテイメントすぎるというか。

残酷さやグロさは武の映画にはいつも多少はあるものでそれが彼の魅力であり個性でもあるのだがアウトレイジはやりすぎな感じがする。


俳優の中で魅力的だと思ったのは加瀬亮と國村隼である。

國村は演技がうまいとかではなくて、映画の中に溶け込んでいるというか表情が自然で演技していることを感じさせないようなところに感心した。

加瀬亮は、まだ若いし、役柄のせいもあるだろうが表情に乏しく見た目もキャシャだしヤクザっぽくないのだがアウトレイジという作品の中にはよくハマっている。

武の映画の俳優は、あまり表情豊かでなくセリフもいわゆる棒読みっぽいところがある。

武はあんまり自然で一般的に名優と言われるような俳優があまり好きではないように思う。


あと、名前がわからないのだがボッタクリバーの店員で指を詰めさせられたチンピラやくざみたいな役者もいいなと思った。


2024/09/01

A une passante

 A une passante


Charles Baudelaire


La rue assourdissante autour de moi hurlait.

Longue, mince, en grand deuil, douleur majestueuse,

Une femme passa, d’une main fastueuse

Soulevant, balançant le feston et l’ourlet;


Agile et noble, avec sa jambe de statue.

Moi, je buvais, crispé comme un extravagant,

Dans son oeil, ciel livide où germe l’ouragan,

La douceur qui fascine et le plaisir qui tue.


Un éclair… puis la nuit! – Fugitive beauté

Dont le regard m’a fait soudainement renaître,

Ne te verrai-je plus que dans l’éternité?


Ailleurs, bien loin d’ici! trop tard! jamais peut-être!

Car j’ignore où tu fuis, tu ne sais où je vais,

O toi que j’eusse aimée, ô toi qui le savais!


2024/07/06

松本人志論2024

YouTubeで、中山秀さんが千原ジュニアと対談しているのを観た。

まずニュースで、中山氏がダウンタウンが出てきた時に勝てないと思った、というようなことを聞いて、「まてまて、お前ダウンタウンに対してクソみたいな扱いしたんじゃないのかよ」と思って、それからyoutubeを観た。

松本氏が、ガキのフリートークで、まだ若い頃に正月に放送する(確か明治神宮でのロケ)番組で、あるタレントに尊大な態度を取られて不快な思いをし、さらにそのタレントが自分達よりも全然格下であるということを怒りを交えて話したことがある。私はその放送を確かリアルタイム(放送自体は録画だが視聴したのがという意味で)で観ていたし、youtubeにアップロードもされていたから、もう何度も観ている。(探したが今は無いようだ)

その尊大な態度をとったタレントが誰かは放送では伏せられていたのだが、中山氏であるというのはほとんど常識のようになっていて、私の中ではもう1つの事実として整理されていた。

私は中山氏を知ってはいるが、彼をお笑い芸人だとは思っていない。でも、彼も当時の「お笑いブーム」の中で、コンビを組んでコントのようなことをやっていたのも知っている。

中山氏は高校生の頃から芸能活動をしていてTVタレントとしてはダウンタウンより先輩なのであるが、年齢は中山氏の方が下だ。

正月の屈辱以後ダウンタウンは芸能界を席巻して、中山氏など比べるべくもない活躍をした。


そして、松本氏は60歳になった時にスキャンダルで突然活動を休止した。それから半年が過ぎ、中山氏を観た。中山氏を見るのは久しぶりだった。若い頃と容貌はほとんど変わらず、もう56歳になるのに若々しく、話す内容も表情も、不快に思うところは全くなかった。


むしろ、最近の松本人志の方が、金髪にしたり筋トレしたり髭をはやしたりしている外面的なこともそうだが、表情とか目の色とか、話すことの内容も、こんなことになったからあらためてそう思うのかもしれないが、くたびれていたというか、もっというと腐り始めていたような感があった。


中山氏は有名タレントではあるが、一体何者なのか、歌手でも俳優でも漫才師でもない、「なんの芸もない」、というのが私の認識で、おそらくテレビに出ている彼を見ていた人々もほとんどがそうだっただろう。


でも今回、久しぶりに彼を観て、そして彼の今までの芸能生活を振り返っている話を聞いて、自分が接してきたテレビとか芸能界とかいうものを自分でも振り返って、いろいろ経験も経てきて自分の社会人生活とか様々な人間関係の悩みやストレスと合わせて考えて、少し、自分の考えや生き方というものを考え直さなければならないと思った。


基本的に私は今回の松本氏のスキャンダルについて、告発者やその告発を載せた週刊文春に対して疑いを持っている。事実かどうかがわからないのでどちらが正しいとか擁護するとかいうことにもならないと思うが、松本氏がそんなことをするはずがない、告発は言わばガセ、ハッタリ、カマかけの類だろうと思っている。


でも、ガセでもなんでも、そういう告発が出てしまったということについては、やはり松本氏になんらかの落ち度があった、隙があった、驕りや油断があった、というのは半年経った今では認めざるを得ないだろうと感じている。


中山氏の姿を見て、彼には全くそんなつもりはないだろうが、私には(もう40年くらいになるのか)、勝ったのは彼だと思わせさえした。


そもそもダウンタウンこそ、なんの芸もないその辺にいるチンピラみたいな若者が言いたい放題言うのを売りにしたタレントだったのではないか。そういう意味ではABブラザーズもダウンタウンも、当時の素人に毛の生えたような連中がワイワイガヤガヤするタレントのひとつに過ぎなかった。


ダウンタウンに才能があるとか技術があるとかいうことが言われるようになったのは彼らが売れに売れた後だ。それまではみんな、ただ面白いから、胸の空くようなことを、痛快なことを、言うに言えない事を代弁してくれたから、応援していただけだ。


中山氏は、当時を振り返って、ダウンタウンとウッチャンナンチャンという二つのコンビの名前を出して、自分達には到底かなわないと思った、と語ったが、これも、今になったから言えることではないだろうか。


私もダウンタウンにずっと笑わされてきた。彼らの出る番組はほとんど観ていて、そのうち彼らの出る番組しか見ない、というくらいになった。

でも、私はダウンタウンのファンであるかと言われると、そうではない。

ダウンタウンが今までの芸能界に現れたタレントの中でも稀有の才能の持ち主であるとみなしているかというと、そうであろうが、果たしてそれは芸術とか文化と言えるようなものであったかと聞かれると、後世に伝えるべき何かがあるのかと言われると、ただ馬鹿騒ぎしていただけのくだらないナンセンスなその場しのぎの憂さ晴らしでしかなかったかな、というのが実際だと思えてしまう。


だったら、誰に馬鹿にされようと、嫌われようと、売れて生き残った方が勝ちではないのか。


何年も、何十年も前の事を蒸し返すような告発が最近いくつかあったが、

中山氏の出演も、非常に穏健ではあるが、一切明示されてはいないが、私にとってはその一つであった。「俺は彼らには全く勝てなかった」と言ったことが、逆に彼の勝利宣言のように聞こえた。


(追記)

これを書いたあと「街録チャンネル」で中山氏が「明治神宮事件」のことを語っているのを見た。明治神宮、野球ネタ、というキーワードからこのことで間違いない。

中山氏は、「自分がダウンタウンにネタを変えさせたなどということはない、そんなことができる立場ではなかった」と語っている。

松本氏が話を膨らましたというかデッチあげたのか。「ABブラザーズとかいうつまらないコンビのためにネタを変えさせられた」という屈辱から話を作ったのか。松本氏はその、ネタを変えさせられたときのことを、変えさせた人物のマネをしながら語っていた。繰り返すがその人物が誰かは放送を見てもわからない。もしかしたら、プロデューサーとかディレクターとかなのだろうか。