2025/12/31

三島由紀夫の親

伜・三島由紀夫」という本を入手した。三島由紀夫の父親、平岡梓が書いたものである。と言っても、その妻、三島由紀夫の母である倭文重(しずえ)の文章というかコメントというか、も、たくさん含まれているので両親の作といってもよい。

三島由紀夫の人生について、公になっていることはたいてい知っていたが、プライベートはどうだったのか知りたくなり、実の父親ならそれを書いているだろうと思った。

まず驚いたのは、あの11月25日の前日、三島は両親に会っておやすみなさいとあいさつをしていたことだった。彼は同じ敷地に両親の家と隣合わせに立っていた家に住んでいて、毎日寝る前にあいさつをしていたそうなのだ。

私は三島由紀夫という人は孤独な人で、とっくに両親などとは音信不通のような状態になっていて、おかしな小説を書いてと愛想をつかされていたのかと思っていたが、死ぬまで溺愛されていた。

三島は自分の作品を母親に見せていたそうだ。母親に見せられるのか、と心配になるような作品もたくさんあった気がするが。特に、暁の寺の本多が覗き見るシーンなどは母親はどんな気持ちで読んでどういう感想を言ったのか。三島も、あれを母親に読ませたときにどういうつもりだったのか。

やはり、父親でしか知らないようなことがたくさん書いてあって興味深い内容ではあった。

私はこの本に、三島が自決することになった本当の理由を探したのだが、その一因だと感じたのは祖母との関係、母親との関係である。

三島の祖母は自分の孫を母親から奪うようにしてそばにおいて育てたそうだ。そして祖母、その夫つまり彼の祖父、父親の父親、はいろいろと問題のあった人だったようで、梓も倭文重も苦労したようである。

三島と言えば同性愛ということがついて回るが、私は彼が単に同性愛者またはバイセクシャルであったというのではなく、女性嫌悪、女性恐怖のようなものだったのではないかと思った。そしてそうなった原因は祖母と母親との関係ではないのか。

また、父親は息子のしでかしたことを悲しみ、怒り、恥ずかしいと感じているのだろうと思っていたが、それもないことはないが、誇らしいと思っているようなところもあるのが意外だった。「あの三島由紀夫の父」ということで注目されることを意識してそのように書いたのかもしれないが。

また、楯の会についても父親は賛同していたといっていいくらいで、一緒に自決した森田氏をはじめ会員達と交流もあったようである。

とにかく、三島由紀夫は家族や知人などに愛され、自分も愛し、結婚して持った家庭にも愛情をもって接し、猫も愛し、私がイメージしていたような冷徹で虚無的な人では全然なかった。

しかし、死ぬような気配など全くなかった、ということはなかったようである。それは、自決とか殉死のようなことを賛美するような言動のことではなく、疲れたような、思いつめたような様子があったと、母親が言っている。

私は三島が死んだのは天皇のためでも自衛隊のためでも日本のためでも憲法のためでもないと思っている。それらは後付けのタイギメイブンであって、生きていくことが耐えられない何かがあったと思うのだ。

2025/12/26

三島由紀夫 「暁の寺」

問題作。三島由紀夫にとっても、私自身にとっても、重要な作品である。

執筆時期等の作品についての説明は省く。

私はたしか30歳の頃、「豊穣の海」を全部読もうと覚悟を決めて読んだ。

第1巻と第2巻は傑作だと思った。しかし、第3巻で戸惑い、第4巻は駄作と言わざるを得ないと感じた。

第3巻の冒頭にある、菱川という男の夕焼け芸術論はおもしろいと思った。こんな調子で皮肉っぽく軽やかに話が展開していくならおもしろいなと思ったが、そうはならなかった。

豊穣の海の生まれ変わりの設定がどうこうというのはあまり気にならない。それぞれがほとんど独立した物語だと受け取っている。だから逆に、「この人は本当に生まれ変わりなのか」と本多が疑ったり確かめたりするところ、それも黒子があるかどうかでそれを判断するところは、少し興ざめする。

第3巻で生まれ変わりとして登場するのはタイ人の女性である。「姫」とあるが「パッタナディト殿下の末娘」ということなので、それほど位は高くないが日本でいう皇族のカコ様とかマコ様とかあの辺の感じだろうか。

最初の方で本多は幼い姫に会うのだが、それから彼がインドへ行ったり輪廻転生や仏教について研究したりするということが書かれて、3人目の物語はなかなか始まらない。

姫の名前は「ジャントラパー姫」だという菱川のセリフがあるが、小説中では「月光姫」と書かれ、成長して日本に来てからは「ジン・ジャン」と呼ばれる。

ジン・ジャンについての物語はほとんど何もない。それ以外に、本多の女友達などが登場するのだが、それらの人物がすること言うことも物語というほどのことはなく、何か醜くむなしい記述が続く。

本多に覗き趣味があることが描かれ、さらに物語の醜さは増す。

本多の妻も登場する。妻も当然年老いている。そしてジン・ジャンのことで嫉妬する。

蓼科という女性と再会するシーンがある。蓼科という名に覚えはあるがどんな関係だったかよくわからないが、ばあやと呼ばれるような人だったと思う。笑ってしまったのだが、本多が卵をあげて蓼科がその場でそれを割って飲むというシーンが書かれる。戦争直後とかのことなので卵は貴重品であったのだろうがさすがにその場で飲むって変でしょ、と笑ってしまった。本多も驚いたと書いてあるので別にそういうことが自然だと作者が考えたのではないと思うのだが。

今回改めて読んでみて感じたもう一つのことは、この作品は女性の描写が目立つことだ。そして、ジン・ジャン以外は特に美しくもなく、人間的な魅力もない。

本多はジン・ジャンに恋をしているようである。

しかし、もし清顕や勲の生まれ変わりであるなら恋愛対象にはならないので、生まれ変わりであってほしくないと思ったりしている。

しかし恋しているならなぜ若い男をあてがったりするのか。

よくわからない。


ジン・ジャンの黒子をプールで水着になった時に確かめたら見つからないのだが、

別荘の隣室に泊まらせて覗いて慶子と同性愛の関係であることを知ると同時に黒子も見つける。

これはどういうことなのだろう?単に見逃していたということではないだろう。慶子と愛し合ったことで黒子があらわれた、つまり生まれ変わりになったのだ。たぶん。


鬼頭槇子、椿原夫人、今西、という3人の関係もよくわからない。

椿原夫人と今西は恋人というか愛人というか、なのだが、二人は火事で焼け死ぬ。


そして、第三巻は唐突に終わる。

本多が15年後にジン・ジャンの双子の姉に会って、ジン・ジャンがコブラに噛まれて死んだと聞かされる....

そんな....

結局ジン・ジャンは本当に何もしない。男に抱かれそうになって拒み、慶子に抱かれ、本多に指輪を投げ返しただけ。







2025/12/24

M-1 グランプリ2025

私が初めてM-1を観たのは2004年だった。

その年は紳助と松本人志の二人とも審査員を欠席していた。

あれから21年がたったが、その後ほぼ全回M-1は観ている。2015年は観なかった。それ以外は全部観たはず。

松本人志が審査員からいなくなって、番組の魅力はだいぶ落ちたと思っていたが、今回はもうそんなことを忘れるくらい面白い大会だった。


ヤーレンズ、エバース、真空ジェシカ、ヨネダ2000は何度か見ていてどういうコンビかわかっている。

豪快キャプテン、ママタルト、カナメストーンは少しだけ知っている。

たくろう、ドンデコルテ、めぞんは、全く知らない。


エバースか真空ジェシカが優勝するのではと思っていた。

エバースの1本目のネタが始まり、町田が車になるという話を始めた時、私は期待していたのにこれはダメだ、と思った。そのネタを知っていたわけではないが、設定が非現実的すぎて、いくら漫才でも話にひきこまれないだろうと思ったからだ。実際、私はほとんど1本目の彼らのネタを聞いていなかった。

だが、終わってみると審査員には大変好評で、これは優勝かというような高得点がついた。

2番目にでてきためぞんのネタは、私の気に入らなかった。終わってから何度か見直したが、めぞんのネタに対する不満が見るたびに増していった。歌を歌うことも嫌なのだが、それよりも基本的な恋愛相談という設定、それも恋愛を賛美するような内容であることがむずがゆいというか気恥ずかしいというか、私が年をとったせいもあるかもしれないが、漫才ですることではないだろうと感じる。

真空ジェシカも期待しつつ見ていて、まあまあいいと思った。が、ボケが羅列されているだけの感じと、なぜあれをやるのかよくわからない、不気味なモンスターのようなものの登場が余計だと感じた。

たくろうとドンデコルテは面白かった。1回目が終わった時点で、どっちかが優勝するだろうと思った。

たくろうは1本目から大ウケだったが、2本目はさらにそれを上回った。

1本目が大ウケしてさあ優勝だ、というコンビが2回目にコケることがよくある。笑い飯、和牛、さや香、オズワルドなど。ミルクボーイは優勝したが1本目の方がよかった。

しかし今回のたくろうは2本目の方がおもしろかった。もしあれを採点していたら、過去最高点を更新したのではないだろうか。

エバースが町田が車になる話を始めた時に失敗だと思ったのとは逆に、たくろうの最終決戦ではビバリーヒルズの生活のシミュレーションが始まった時に「これはおもしろくなる!」と確信した。

ドンデコルテは面白かったのだが、何度か見返すと、ほとんど一人語りになっているのと、インパクトはあったが何か一つ足りない気がした。よく、「もうひと展開ほしい」ということが言われるが、そうではなくて、むしろ終息していくような感じが欲しいように感じた。


2025/12/15

三島由紀夫2

三島由紀夫の市ヶ谷での最後の演説がyoutubeで見ることができる。そこについているコメントはほとんど肯定的である。youtubeのコメントの仕組み上、否定的なコメントは表示されにくくなっているようだが、それにしても私は三島由紀夫の主張はともかく、彼の行動に疑問を持たない人たちの神経を疑う。

彼が亡くなった時私はまだ2歳だったから当時のことはわからないのだが、1970年、昭和45年に、切腹などということをするのは極めて異常なことである。

youtubeを観ている若者は、昔はこんなこともあったのか、サムライはこうやって命をかけて自分の主張を訴えたのか、とでも思っているのだろうか。

自衛隊が違憲なのはおかしいという主張はもっともであり、現在もそれを変えようという動きはあるが、それをクーデーターによりおこなうとか、聞き入れられなかったら切腹するなどというのは賛同できないどころか滑稽ですらある。

特に、今改めて感じるのは、自衛隊員を傷つけ、若者を道連れにしたことへの憤りである。

三島は森田に自決をするなと言ったようだが、あんなことを一緒にさせておいてそんなことを言っても引っ込みがつかないだろう。

警察なども、事が行われるまで何もできなかったのか。まさか切腹などするとは思っていなかったにしても、刀で切りつけた時点で逮捕できなかったのか。


あと、彼は老いることに対して非常に抵抗がありそれを恐れていたようだが、45歳なんて、まだまだ若いのにと、とっくにその年齢をすぎた今、あらためて思う。

ただ、当時の状況についてのいろいろな記録を見ると、どうも三島氏をはじめとして行動を共にした者たちも、死ぬことについての恐怖があまり感じられない。また、国を憂いての行動でありそれがいわば失敗することになることについて無念であるとかいう気持ちもあまり見えない。

死の一週間前だという古林氏との対談でも、まるで絶望したような雰囲気などない。

なんだか、死ぬことが楽しみでしょうがなかったようにさえ見える。

三島由紀夫

三島由紀夫と古林尚の対談の最初の方。私はこの対談を何度も繰り返し聞いたのだが、ここにでてくる「ロマンティケル」と「ハイムケール」という言葉が聞き取れなかった。

僕が古典主義あるいは新古典派みたいに自分を自己規定無理矢理しようと思ったのはね、潮騒って小説書いてからしばらくの間だけ、長続きはしなかった。その時それで自分をね制御できると思ったんですね、僕は。 そして自分の中のどうしようもないものがね、これで落ち着けるだろう、そして自分はつまり日本にまだない、なかったクラシシズムというものをね、その理性ですべてを統御するようなね、作家になれるだろうと僕は錯覚を起こしてたんですよ。 

そのうちそうでないってことがわかったんです。どうしても自分の中に統御できないものがある。そうするとまあ、だんだん自分が嫌々ながらロマンティストであるってことを認めざるを得ないんですね。でロマンティケルであるってことがわかると、どうしてもそれは、ハイムケールするわけですよね。ハイムケールすると十代行っちゃうわけです。で、十代行っちゃうといろんなものがね、パンドラの箱みたいにワーッと出てきちゃう。

僕はね、まあ、もし誠実というものがあるとすればね、人にどんなに笑われようとね、まあ、悪口言われようと、そういうものに忠実である以外に作家の誠実ってないような気がする。


romantiker ロマン主義者、ロマン派の芸術家、ロマンチックな人、空想(無想)家

heimkehr 帰郷、帰省、帰宅、帰還


当時、インターネットはすでにあった。google検索もすでにあったような気がする。

この対談のテープを図書館で借りてMDにダビングしたのだが、2000年頃だった思う。


しかし、この対談についての情報はインターネットにも本屋にも見つからなかった。おそらくちょっと大きい図書館に行けば対談の書きおこしなどが見つかったかもしれないが当時の私はそこまではしなかった。

今ではこの対談についての情報がたくさん見つかる。

対談の音声も、CDで入手しなおした。


「完全な遊戯」から、この対談のことをあらためて思い返し、そうするとどうしても11月25日のことを考え、なぜ彼がああいう行動に行き着いたのかを考え直さざるを得ない。

なんど考えても、不可解である。私には世間で言われているようなこと、彼自身が言っていること以外の何かごくプライベートな理由があるように思えてならない。


今ではネットでもこの事件についての情報がたくさん見つかるがあらためて調べてみてもかなり長い間入念に計画されていて、しかも、切腹することは最初から決まっていたのも間違いないようである。決起をうながしてかなわないからやむを得ず腹を切った、などということではない。

天皇も、自衛隊も、憲法も、死ぬための後付けの理由にしか思えない。対談のなかでも、封建君主でもいい、妄念である、陸軍の蒙昧なファナティックなものが好きだなどと言っている。

悲劇の主人公になり自分の人生を芸術化したのだなどという人も多く、そういう意図もあったようには思うが、彼はそんな単純な男ではないはずだ。彼は死ぬことで家族などに迷惑がかからないように注意を払っている。原稿も期限に間に合わせ、遺書も書き、準備万端で死んでいった。

言われているような理由とはどうしても釣り合わないのだ。なぜそこまでして死ななければならなかったのか。

あと、森田必勝が介錯に失敗したので代わって介錯した古賀氏という人は「フル古賀」と呼ばれていたのは知っていたが、それは「コガ」という人物が「小賀」と「古賀」の二人いて、区別するために「古賀」の方を「古いという字の方の古賀」ということで「フル古賀」と呼ばれていたのだと、今更気づいた。

2025/12/13

石原慎太郎「完全な遊戯」

昭和32年の作品。昭和43年発行の角川文庫。ヤフオクかアマゾンで買ったものだが読まずにいた。

この作品のことは、三島由紀夫と古林尚の対談を聞いて知った。この対談は何回も聞いてほとんど暗記しているくらいだが、この中で三島が完全な遊戯のことをほめていた。

石原慎太郎の作品は読んだことがなかった。三島由紀夫についてのエッセイみたいな本を読みかけたが、悪口が目立って気分が悪かった。

小説も読んでみたがセリフがカッコ悪くて読むに堪えなかった。

ふとした時に手に取って読んでみたら、それほど違和感なく読めた。ようやく完全な遊戯がどんなものか知ることができた。

軽くて、乾いた文章だと思った。特にいいとも悪いとも思わない。

2025/11/06

オーディオテクニカのイヤホン

私はイヤホンはだいたいオーディオテクニカのものを使う。違うメーカーのものを使ったこともあるが、特にオーディオテクニカを上回る性能や品質だと感じたものはなかった。appleのAir Pods Proも含めて。

別にオーディオテクニカのイヤホンが素晴らしいというわけでもない。なんの特徴もない、普通のイヤホンである。

ATH-CKS660XBTをしばらく使っていたのだが、再生・停止ボタンのゴムのカバーが破れてしまった。使えてはいるが、押しにくいし水などが入って壊れそうなので新しく買うことにした。同じものを買ってもいいのだが、何か良さそうなのはないかと探したらATH-CKS330XBTという、3000円くらい安いものがあって、レビューが高評価でよく売れているようだったので買ってみた。

形はほとんど同じなのだが、330の方がイヤホンとコードの接続部分が少し大きい。また、その部分が660はメタリックな感じでやや高級感があるが330はメタリックさが抑えられていて全体的に真っ黒なプラスチックでやや安っぽく感じる。

肝心の音質であるが、330を使い始めた時はほとんど違いを感じなかった。まあ、聞く音楽が音質を気にするような音楽ではないし、外出時に騒音の中で聴く場合がほとんどなので微妙な差はわかりにくいのだが。

しかし、しばらく使っているうちになんとなく330は音がイマイチだなと感じるようになった。なにが悪いのかと言われると説明が難しいが、聴こえる音域が狭いような感じ。スペック的にも330より660の方が音質はよいらしい。

あと、電池がすぐなくなるように感じる。660の時は、「battery level is high」以外であることはまずなかったのだが、330ではmediumとなったことが何度かある。

値段の差があり、品質や性能の差も微妙なので330でいいとも思うのだが、高いといっても660は8000円くらいなので、どうせなら660を選んだ方がよいと思う。

しかし、どちらも再生・停止ボタンはゴムでおおわれており、すぐに破れてしまうのは同じ。ここをなんとかしてもらいたい。



2025/09/28

No Country for Old Men (2007)

ジョエル・コーエン、イーサン・コーエンが監督、脚本

原作は同名の小説でコーマック・マッカーシーという人が2005年に書いたもの。

話題になったので見ようかなと思ってみずにいたが、もう18年も経っていた。

youtubeでこの映画が紹介されていて引き込まれて全部見たくなった。

DVDを買って観た。

シーンは残酷だったり不気味な内容が多いのだがとにかく映像が美しいと感じた。

構図や光の具合、時代は1980年ころのようだが、車や家具なども落ち着いているというかギラギラしていない感じがよい。

ストーリーは正直よくわからないし、何が言いたいのかもよくわからない。

No country for old men というタイトルの意味もよくわからない。メキシコとの国境を越えるシーンで少し関係あるのかと思ったくらい。

感動するところは全くない。

映像の美しさと説明的でないところが心地いいなと感じるくらい。

2025/09/22

Hotel California

Hotel Californiaという曲は有名でいい曲だとは思うが、歌詞の内容がよくわからない。曲調と、断片的には聞き取れるちょっと物騒というか不気味というか、そういうフレーズからして明るい内容ではない、というのはわかるのだが、何が言いたいのかよくわからなかった。

作詞はドン・ヘンリー、作曲はドン・フェルダーと別人である。

よく見るMVでドラムをたたきながら歌っているのがドン・ヘンリーで、ドンフェルダーはネックが2本あるギターを弾いている人で、たぶんホテルカリフォルニアでソロを弾いている。(後で確認したらソロは二人で弾いている。もう一人はジョー・ウォルシュ。というか、ソロはジョー・ウォルシュが弾き始めて途中からドン・フェルダーが加わっている。)


On a dark desert highway

Cool wind in my hair

Warm smell of colitas

Rising up through the air

Up ahead in the distance

I saw a shimmering light

My head grew heavy and my sight grew dim

I had to stop for the night


ホテルに泊まることになるという導入部。

ここでまずわからないのが colitas

私が持っている3冊の辞書のどれにも載っていない。検索すると砂漠に生えている植物の名前らしいが、「大麻」の隠語として使われることもあるらしい。

洋楽でクスリのことを歌うのは珍しくないが、今まで聴いた曲で colitas という語が出てきたのを見た(聴いた)覚えがない。

映画や小説などで「コリタス」という語が出てきたのも。


コリタスはコリタスとして、大麻の隠語であるとして、それは別にいい。1976年のアメリカの曲に大麻が出てきても驚くことは何もない。

コリタス以外の歌詞は、特に難しいことも、特別素晴らしいところも、感動するようなことも、わくわくさせられるようなこともない。

むしろ、desert highway, shimmering light, my sight grew dim, stop for the night など、そんなに英語の詩に詳しいわけではないがよく目にする、凡庸といっていい語句、月並みな韻の踏み方という感じがする。


There she stood in the doorway

I heard the mission bell

And I was thinking to myself

"This could be Heaven or this could be Hell"

Then she lit up a candle

And she showed me the way

There were voices down the corridor

I thought I heard them say


「彼女」が登場する。mission bellとは何か?

なにかしらの鐘の音だろうとは思うが、調べてみるとそんなによくある、使われるようなものではないようだ。

植物の名前でもあるらしい。「聞いた」とあるので植物ではないだろうと思うが、もしかしたら洒落なのかもしれない。

次に、「天国か地獄かと考えた」とあるのだが、唐突かつ大げさである。

まだホテルの入り口で女性が一人現れただけなのに。

これも「bell」と「hell」で韻を踏ませただけで深い意味はないのではないか。

「彼女」がろうそくを灯して道を示す。

廊下に声が聞こえる。


she show me the way

I heard them say

これも月並みなただのごろ合わせでは。



"Welcome to the Hotel California

Such a lovely place (Such a lovely place)

Such a lovely face

Plenty of room at the Hotel California

Any time of year (Any time of year)

You can find it here"


「ホテルカリフォルニアへようこそ」

lovely place

lovely  face


lovelyは日本語でも「ラブリー」として使われるが、もっぱら若い女性などがかわいらしい、という意味でつかわれる。

日本語で「ラブリーなホテル」ということはないし、英語でもnice placeとかいうのが普通なのではないか?

そして lovely face

ん?なんのこと?誰の顔?「彼女?」もしかして人の顔じゃなくてホテルの外観みたいな意味?


たくさんの部屋がある

1年のいつでも見つかる。何が?部屋が?「ここで見つかる」だから、ホテルが見つかるのではない。ホテルにある、部屋ということだろう。


よくわからない詩だ。


Her mind is Tiffany-twisted

She got the Mercedes bends, uh

She got a lot of pretty, pretty boys

That she calls friends

How they dance in the courtyard

Sweet summer sweat

Some dance to remember

Some dance to forget


この辺から、なんとなく「意味」が出てくる。

作者が言いたいことがなんなのかがだんだん見えてくる。

Tiffany-twisted というのは、ブランドのティファニーで心がねじ曲がった、要は「ティファニーかぶれ」みたいな意味らしい。この言葉も調べてみると一般的なものではないようで、「ホテルカリフォルニアに出てくる語句」という情報が見つかる。

車のベンツは正しくは「Benz」であるが、これは意図して、「bends」としているようだ。つまりこれも「曲がった」という、悪い意味。

彼女には友達と呼ぶ「かわいい少年たち」がいて、踊っている。

まあ、バカな尻軽女、なんでしょう。


So I called up the Captain

"Please bring me my wine", he said

"We haven't had that spirit here since 1969"

And still those voices are calling from far away

Wake you up in the middle of the night

Just to hear them say


captainを呼びワインをくれという。キャプテン?

ホテルの支配人みたいなことだろうなとは思うが、調べるとアメリカで「ホテルのボーイ長、レストランの給仕長」みたいな意味でつかわれるらしい。これは特に深い意味はないか。

そしてそのキャプテンが「その酒は1969年からない」と答える。

この、1969というのは意味深で、いったい1969年に何があったのか?と思わせるが、

説明はない。


あと、wineをくれといっているのにわざわざ that spiritと言っているのは、「魂」とのダブルミーニングだという人がいるが、そうだとしても1969年に何があったのか......


"Welcome to the Hotel California

Such a lovely place (Such a lovely place)

Such a lovely face

They living it up at the Hotel California

What a nice surprise (What a nice surprise)

Bring your alibis"


ホテルカリフォルニアはlovely place, lovely fase

live it up というのは贅沢に暮らす、大いに楽しむ、という意味らしい。


What a nice surprise

Bring your alibis

ここも唐突かつ無理やり感がある。


bring your alibisとは?

これも一般的な言い回しではないように思う。「アリバイ」とは日本語になっていて刑事ドラマなどで犯人と疑われたものがそのとき別の場所にいたことの証明という意味で使うが、英語でもそれでよいようだ。

そうだとしてもピンとこないのだが、ホテルカリフォルニアで贅沢に遊ぶというのはあまりよいことでは、大っぴらに言えるようなことではないから、うまくごまかして、というようなことか。


Mirrors on the ceiling

The pink champagne on ice

And she said, "We are all just prisoners here

Of our own device"

And in the master's chambers

They gathered for the feast

They stab it with their steely knives

But they just can't kill the beast


天井の鏡、ピンクのシャンパンに氷

「贅沢に遊ぶ」の描写。


次に彼女が言った言葉がまた意味深というか意味不明

「私たちは我々自身の装置の単なる囚人である」

このdeviceは装置ではなくて、計画やたくらみなどの意味であって、

要は「自業自得で欲におぼれた」ということらしい。


次も物騒だが意味不明


主人の部屋に祝宴のために集まり

ナイフで刺したが野獣は殺せない


steely knivesは鋼鉄のナイフという意味だが steelyが Steely Danを意味しているという説あり

Steely Danという名前は聞いたことはあるが、どういう人か、イーグルスとどんな関係があるのかはわからないが、そんなめんどくさいことするかなと思う。

そして、ナイフで刺すとあるが何を刺すのか。これもわからない。

こういうよくわからない、曖昧というか、意味が成り立たないフレーズが目立つ。


まさか集まった人同士でナイフで刺しあうというわけではあるまい。


Last thing I remember, I was

Running for the door

I had to find the passage back

To the place I was before

"Relax," said the night man

"We are programmed to receive

You can check out any time you like

But you can never leave"


さすがに「私」はホテルから逃げようとするが、

「チェックアウトはできるけど去ることはできない」

という理不尽なセリフで終わる。


説明不足で唐突で理不尽でモヤモヤしたまま終わる。

曲調は強い感傷的なものがあるのに、それと結びつかない。

この曲が名曲だ!と言い切れないのはそういうところにある。


まあ、推測するに、「ホテルカリフォルニア」はCaliforniaという地域を象徴するもので、カリフォルニアで経験したこと、カリフォルニアの文化や習慣、カリフォルニアの人々(特に女性)に対する幻滅や哀れみみたいなことを伝えたかったのかな。

カリフォルニアとか西海岸という地域はアメリカの中でも独特の文化があるときく。


ビートルズやボブディラン、ザフー、などはどういう人たちでどういう経験をしてきたかなどをある程度知っているからこの曲はこういうことかな、というのがわかるけど、イーグルスについては全くと言っていいほどしらないので、推測のしようもないのだが。

そして、イーグルスについて興味を持って、違う曲も聞いてみようとか、メンバーはどういう人たちでどういう経歴なのかとか興味を持つこともなかった。


ネットにはいろんな解釈が、大げさな深刻な解釈をしている人が見られるが、本人たちのインタビューで単なる語呂合わせだ、みたいなことを言っているのもあるし、おそらくそんなに大した意味はない。

意味がないのは別にいいのだが、意味があるかのように見せかけるのはよくない。

イーグルスはメンバー間の不和があって、解雇とか訴訟とかあったらしいが、この曲だけを見てもなんとなくバラバラな感じがうかがえる。

そして、歌詞の内容を改めて確認してみて、この曲を聴いて何か感慨にふけるとか、感傷的になるとか、ようするに音楽として感動できるかというと、どうしてもできない。カリフォルニアに対する愛情も、哀しみも、そこで出会った人々や経験への追憶のようなものもない。ただの苦く忘れたくても忘れられない暗い影みたいな、そんなものがイメージされてしまう。


2025/04/27

エリッククラプトン 武道館 2025/4/26

彼が何度も来日していたのは知っていたが、観たのは初めて。

特に好きなアーティストというわけではないが、好き嫌いは別にみとめざるを得ないような存在だった。

だから、彼のめぼしいアルバムはだいたい聴いていて、今回のライブでも知らない曲はほとんどなく、もう聞き古した聴きつくした感さえあるような曲ばかりだった。


土曜日の18:00から。

天気はあまりよくなくて、そろそろ出かけようかというときに強い雨が降った。と思ったらすぐやんで、駅で電車を待っていたら虹がかかっていた。

武道館の最寄り駅は地下鉄の九段下であるが、駅へも駅から武道館へもあまりアクセスがよくないので、市ヶ谷から歩いた。

会場に着いたのは開場時刻の5時ごろだったが、すでに大勢の人がいた。さすがに年齢層が高い。自分と同じかそれ以上の人たちばかり。服装、髪型、表情も、地味というか質素というか、穏やかな空気に満ちていた。

最近は荷物検査などが非常に厳しいのだが、「荷物は自分で見せてください」という貼り紙がしてあるだけで、チケットを見せ、ちいさい肩掛けかばんを持っていたが特に開けることもせず開けてくださいと言われることもなく、中に入れた。拳銃でさえ持ち込めただろう。


席は東の2階だった。ステージに向かって右30度くらいのところ。演者までの直線距離は50mくらいだろうか。


クラプトン以外の演者は、白人の左利きのギターが一人、黒人のベースが一人、黒人のキーボードが一人、白人のキーボードが一人、黒人のドラムが一人。誰も知ってる人はいなかったが、ベースはネイザン・イーストという有名な人らしくて、彼がボーカルをとる曲もあった。

あと、黒人の女性コーラスが二人いた。

ステージの上には大きなディスプレイが3枚くらい設置してあり、表情や手つきなどを見ることができる。ほとんどそっちを見ていたかもしれない。時々、せっかく生で観てるんだからもったいないとステージを観たりしていた。


前評判はネットでなんとなく見ていたのだが、思っていたよりずっとよかった。

そして、演奏を聴いて彼の姿を見ながら、エリック・クラプトンとはどういうミュージシャンなのか、と改めて考えた。

彼はまずギタリストであるが、シンガーでもある。ギターを弾きながら歌うミュージシャンはたくさんいるが、彼ほど「歌える」ギタリストは稀である。

そして、彼のギタープレイであるが、彼は主にブルースを演奏する。今回のライブでもロバート・ジョンソンなど、いい意味で「ただのブルース」を何曲か演奏していた。

私は少しギターを弾くが、彼のプレイを真似しようと思ったことは全くと言っていいほどない。観たり聴いたりしていて、うまいのだろうなとは思うが、すげぇ、とか、素晴らしい、とか、天才だな、とか思うこともない。

彼のギターソロはなんというのか、雑味やエグみみたいなものがなく、きめ細かく自然で無理がなく体に染みわたるようなものに感じる。

若いころはおそらくそれが退屈だと感じてあまり好きにはならなかったのだろう。




2025/04/13

龍三と七人の子分たち

武の映画で唯一(たぶん)観ていなかった「龍三と七人の子分たち」を観た。

別につまらなそうだからと見送っていたわけではなく、公開されたことを知らなかったのだ。

だいぶ前にこの作品のことは知ったのだが、ようやく観た。

座頭市やアウトレイジは話題になったがこの作品はあまり話題にならなかったように思う。だって公開されたのを気づかなかったくらいだから。


この作品は基本的にコメディであるが、やはり武の映画に暴力や残酷なシーンは欠かせないのか。でも本当に最小限に抑えられていた。

年取ったヤクザの悲哀みたいのを前面に出されるのもつらいので、それも抑えられていたのはよかった。


この映画がどういう評価をされているのか知らないのだが、たぶん「中途半端」みたいに感じる人が多かったのではないだろうか。

漫画を読んでるようなものと受け取って楽な気持ちで観れば、面白い映画だと思う。


2024/12/24

NとW

NとWの間に何があったのかは推測や想像ですらまともな情報がほとんど見られない。

わかっていることはNとWが食事をしたこと、WがPTSDになってテレビ局を退職したこと、Nが9000万円を払ったことくらいである。

男女間のことで非常に高額な示談金であることからまず、性的な暴行があったのでは?と考えたくなるのだが、どうもそうではないような気がしてきた。

NとWのこととWの退職のきっかけになったことの関連は今のところあきらかになっていないが、ここではそれが原因であると仮定して考えてみる。

気になって仕方がないのでFRIDAYの有料記事を読んでみたが、ほとんど具体的なことは書かれていなかった。ヒントになる発言としては以下のようなものがある。


・その時点で「あぁ、もう私はダメだな」と悟った

・通院しないと、死を選んでしまうと直観した

・突発的に起きたトラブル

・その時の気候(雨)や最寄り駅、匂い、食べ物を想起するとパニック発作が起きる

・PTSDにした人たちのせいで人生を奪われることが悔しい

・なんとか立ち直ってやろう、とその場所に足を運んだりした

・会社にも関係するトラウマ

・警察に被害届を出すことも考えたが踏みとどまった

・当時の日記に「自分に正直に生きれば良かった」と書き記している


相当のショックを受ける出来事があったようで、性的な暴行を受けたことが真っ先に想像されるが、一人の男に性的な暴行を受けたというような単純なことではないようだ。

ただ、何かに逆らえずに本当は嫌なのに我慢して受け入れて傷つくようなことをされてしまった、警察には言えなかった、となるとやはり性的なこと以外に思いつかない。

しかし、そうだとしたら「人たち」とか「会社にも関係する」というのはどういうことなのか。会社ぐるみの性的な接待の強要なのか?

でも、2023年と言えばNもWもテレビ番組に常時出演していて、今さら接待をするような関係ではないと思うのだが....

そして、結局退社はしたものの、復帰して働き続けようという意思もあったようだ。もし会社ぐるみの性的接待を強要されたというようなことであれば、即退社して戻ることなど考えられないだろう。

会社としても、彼女が嫌がるとか拒否するとかいうことは容易に想像できるはずだ。会社としての命令だからあのタレントに抱かれろ、で何事もなく終わると考えていたとも思えない。

それとも、テレビ局のアナウンサーになるような女はそういうことにハイハイと従うような女ばかりで彼女が異例だったのだろうか...






2024/12/15

砂の器(1974)

朝倉海の試合を観るためにU-Nextのお試し契約をした。すぐに解約する予定だがどんなものが観れるのかなと映画のラインナップを見るとほとんど興味がわかないが、「砂の器」があった。

何度かドラマ化もされているが、映画が強烈すぎてどれも観ていない。観ようという気にもならなかった。あの作品がテレビにおさまることなど想像もできなかった。

原作は映画を観た後に当然読んだが、予想はしていたが映画のような劇的なドラマではなく最後まで読んでいない。

私が初めて見たのは、VHSテープで、1988年頃である。その時、私はその映画のことを知らなかった。ある人にすすめられて観た。

殺人事件が描かれているのだが、映画は犯人探しというより、人を殺すということに至った背景や動機(それも心情的な)などが描かれ、「犯人」を犯罪者とし悪人としてとらえそれを憎むなどという感情は観た人は抱かないだろう。

「砂の器」という題名は、殺人を犯した男の人生がそれのようにもろくはかないものであったというような、ある意味男の人生を批判するような意味があるように思う。しかし映画では先ほど言ったように男を殺人者として裁くような描き方はまったくされていない。


圧巻なのは、男の犯行であることが刑事によってつきとめられて、逮捕状を請求するために説明する場面とそこに重なるコンサートと男の人生の回想シーンである。

男の戸籍が偽装されていること、そして男の本当の生い立ちが説明される。しかし「想像するしかない」というセリフがあるが緻密な論理による推理よりもその「想像」で描かれるなんの証拠もない回想シーンこそがこの映画のクライマックスでありテーマとなっている。

何度か観ているが、今回は初めて見たときの自分の人生のことを思い出すなどしたこともあって今まで見た中で一番泣けた。

そして、あまりに心を打つストーリーなので作り話ではなく実際にこういう事件があったのではないか?と思ったがどうやら実話ではないようである。

この映画は音楽や推理小説という原作をドラマに大胆に再構成しているところなどに感心するのだが、各シーンの撮り方もとても丁寧で出演者も豪華でどうしてこんなに気合を入れて撮ったのだろうと思った。