2024/04/09

大藪春彦 「野獣死すべし」(1958)

大藪春彦の名前は知っていた。主に角川映画の原作者として。でも映画も小説も、ほとんど内容を知らない。高校の同級生に大藪春彦の小説が好きだという男がいて、『俺は読んだことないなあ』と思ったがそれでも読まずにいた。

映画『TATTOOあり』を観て、銀行立てこもり事件を起こした男(こういう時に「犯人」と呼ぶのがどうもしっくりこない)が大藪春彦の小説が好きだったらしいと聞き、いったいどんな小説なのかと思って「野獣死すべし」を読んでみた。kindleで。

「野獣死すべし」と「野獣死すべし 復讐編」という2作品が収められているが最初の方だけ読んだ。

なんともつかみどころがないというか実感が湧かないというか。銃を撃ったり人を殺したりしたことはない。殴ったことも子供のころのケンカくらいしかない。戦争の経験も、人が殺されるのを見たことも、マンガや映画でしかない。大藪春彦はかなり壮絶な幼少期を送ったようだが、ここに描かれているのどこまでが実体験でどこまでが読んだ小説の影響でどこまでが想像、空想なのだろうかと思いながら読んでいた。自分の経験したことしか書けないとか言ったそうだが、本当だとしたらとんでもない犯罪者になってしまう。

中学生の時、平井和正のウルフガイシリーズというのがおもしろくて何作か読んだ。それと似たような世界を感じるが、もっと残酷で暗くて、不可解である。ウルフガイシリーズはSFのような、娯楽的なものだったが、大藪春彦の世界はそんなものではない。半分くらい読んでも感心したりなるほどと思うことすら全くと言っていいほどない。

でも、三島由紀夫は公言はしなかったが大藪春彦の愛読者であったとか、江戸川乱歩に絶賛されたとか、タダモノではないのだろう。

でも、私にはさっぱりわからない世界である.......

タイトルの「野獣死すべし」がよくわからなかったのだが、おそらく「人間とは言えないケダモノのような奴は生きる価値がないから死んでいい」みたいな意味だ。そして The Beast Must Die という小説があるそうなのだがそこからとったのではないか。

まあ、私に言わせればこの主人公こそ「野獣」だが....

1958(昭和33)年というのは思ったより昔の作品だった。
文体自体にはあまり違和感を感じないが、こういう文体が当時は斬新で皆がマネをしたから今私が読んでも違和感を感じなくなっているのかもしれない......

2024/04/08

TATTOO<刺青>あり (1982)

高橋伴明監督、宇崎竜童主演。

1979(昭和54)年におきた銀行立てこもり事件を題材としているが、事件そのものでなく事件にいたるまでの主人公を描いており、猟銃を持って銀行に乗り込むところまでは描かれているがその後立てこもり射殺されるまでは描かれていない。

この事件があった時私は小学生だったが、人質を裸にしたとか人質により人質の耳を切り落とさせたとか、最後射殺されたとか、報道された犯人のいでたちの異様さとか、ちょっと変わった名前とか、よく覚えている。

犯人(Aとする)の生い立ちなどについてはかなり詳しく判明しているようで、本も出ている。15歳の時に強盗殺人を犯したが少年であることから比較的短期間の服役で出所し20歳で観察処分を終えている。

水商売やヒモなどで生計を立てていたようだが極貧ということもなく、金遣いは荒いがそこそこの暮らしをしていたようだ。また、知性も教養もない欲望におもむくままに生きていた人間のようなイメージだったが、読書家であったり借金の返済には義理堅く几帳面だったりと、粗暴なだけの人間ではなかったようである。

銀行強盗を思い立ったのはカネに困ったということだけではなく、30歳までにデカいことをやってやるという意識もあったのだという。

どこまで本当だかわらないが、暴力団組長暗殺未遂を犯して惨殺されたBの愛人だった女がBの死後、Aの愛人となっていたのだという。

映画ではその女性をモデルとしたと思われる女性(関根恵子)が登場するが、一時愛人のような関係にはなるが、別れた後Bの女になっていて、その時にはその女はAに心はなかったという風に描かれている。

Bの事件が起きたのは1978年7月で、この立てこもり事件が起きたのは1979年1月である。

映画では、新聞か何かでAがBの事件を知り、それにも触発されたように思わせるシーンもある。

私はAの事件もBの事件も知っていたが、こんなに短い間に、ほとんど同時といっていいくらいに、起きていて、しかもその二人に共通の愛人がいたというのは驚きだった。

あと、関根恵子はこの映画を撮った後に高橋伴明と結婚していたというのも驚きだった。彼らが夫婦であることも夫が映画監督であることも知っていたが、この映画の縁だったとは。

それから、この映画が作られたのが1982年で「竜二」が1983年である。背景となる街並みや画質がいい感じに鮮明過ぎないところなどが竜二と似た雰囲気がある。竜二はこの映画に影響を受けているのでは?とさえ思った。まあ、これは「ATGっぽさ」なのかもしれないが、私はほかにATGの映画をほとんど知らないので何とも言えない。

2024/03/24

アンナ・カレーニナ(第一編)

ずっと読みたいと思っていたが、ようやく読み進められた。

とりあえず第一編を読んだ。

新潮文庫の木村浩訳を読んでいたのだが、出張で長時間移動があった時に読もうと思っていたが文庫本を持ってくるのを忘れ、駅の本屋で買おうと思ったがなかったのでKindle版の米川正夫訳を買って、それ以来そちらを読んでいる。

訳文にも良しあしやクセがあるだろうが、木村訳から米川訳に切り替わって違和感をおぼえることはほとんどなかった。

なんとなく、木村訳の方がよかったような気もするが、本当になんとなくだ。どうしてそう思ったのかというと、kindle版を読むようになって内容が頭に入ってきにくくなったからだ。第一編の終わりの方になって、なんでこんな事になったのか、トルストイはなんでこんな場面を描いているのかと感じ始めた。

私はロシア語は読めないが、聞いた話だがトルストイの文体というのはクセがなく平明であるらしい。なので、翻訳者が変わってもニュアンスが変わるようなことが少ないのではないかと思う。

米川正夫の翻訳は、ドストエフスキーで読んでいる。カラマーゾフは岩波文庫の米川正夫訳で読んだと思う。

さて、アンナ・カレーニナについてだが、これは「不倫」の話である。まず、ある男(オブロンスキー)の不倫により家庭が崩壊しかかっている話から始まる。が、オブロンスキーは主人公というほどの重要人物ではなく、題名となっている「アンナ」の兄であり、その他の重要人物の友人であったり知人であったりする、きっかけとなるような人物である。

普段はしないのだが、今回は本作の概要をウィキペディアなどでざっと調べた。それによると、この作品はアンナの不倫が中心となっているようである。冒頭で語られるオブロンスキーの不倫は、それにくらべたらまだ小さな、取るに足らないちょっとしたもめごとにすぎない。そもそもアンナは兄の不倫の話を聞いて兄の元に駆け付け、兄の妻と話をし、仲裁のようなことをする。しかし、そのアンナが不倫をし、自殺までしてしまうようなのだ。

オブロンスキーの不倫は深刻でない代わりにまったく感情や欲望に流されただけの不倫である。第一編ではまだアンナの「不倫」はそのきっかけのような部分しか語られていないが、たんなる欲望に流されただけのものでないだろうことは察せされる。

たくさんの登場人物がいること、長編であること、その描写が客観的で話の展開も自然で無理がないところなどは戦争と平和を読んだ時にも感じたのだがNHKテレビの「大河ドラマ」のようだと思うのだが、これも以前にも述べたが大河ドラマの方がトルストイをマネしているのだと思う。

トルストイはドストエフスキーと同時代の長編作家でありよく比較される。私の印象では、トルストイの方がまじめで常識的、ドストエフスキーは過激で激情家であり、トルストイは退屈、ドストエフスキーの方が刺激的でおもしろい、という感じで捉えられているように思うが、実際はトルストイもなかなかの過激な人物だと思う。

それは、クロイツェル・ソナタを読んだときに感じた。

トルストイも、放蕩におぼれたり金儲けに失敗したりという経験をしている。まあ作家になるような人間はだいたいろくでもない青年期を送っている場合が多い。しかしよく言われる「放蕩」って何をさすのだろう。


2024/01/04

ダーウィン「種の起源」

岩波文庫(Kindle版)

Charles Darwin
ON THE ORIGIN OF SPECIES BY MEANS OF NATURAL SELECTION OR THE PRESERVATION OF FAVOURED RACES IN THE STRUGGLE FOR LIFE (1859)

八杉龍一訳(1963~1971)


私は酔っぱらうと「進化論」を否定したくなる。ツイッターに書いたり、ブログに書いたり、喋って動画に撮ったりする。しかし、自分が撮った動画を見ていて、そもそも自分が否定している「進化論」が、本当に自分が思っているような考えなのか、確認せねばなるまいと思った。

最初の章を読み始めて、今まで読んだことのない文体だと感じた。翻訳文が、普通は漢字で書くところがひらがなになっている箇所が多いのに違和感を感じてなかなか読めなかった。最初に、栽培する植物は自然状態よりも変種が多い、みたいな話から始まった。なかなか自分が持っているイメージの進化論が語られないので、目次をざっと見て、最後の方にある第十四章「要約と結論」から読んだ。

そこに書かれていたのは、自分が思っていた、学校で教わったりした「進化論」の内容とほぼ同じだった。しかし、思っていたよりダーウィンの論調は穏やかというか緻密というか飛躍や暴論がなく、非常に多くの実例、根拠が示されていて、読んでいて疑問を感じたり反感を抱くことはほとんどなかった。

そして驚いたのが、私がよく思ったりしゃべったりする「進化論に対する疑問」というものが、ほとんどすべて、すでに想定されてそれに対する回答が示されていたことだ。十四章に続く「付録 自然選択説にむけられた種々の異論」においては、特にマイヴァートという動物学者の異論がたくさん紹介されていて、それらがほとんど自分が抱く疑問を網羅していた。

要約と結論、そして異論に対する回答を読んだ後、各章をざっと読み返した。ひとつわかったのは、ダーウィンの言う「進化」というのは、特に動植物が意図して特定の方向に変化していったのではなく、ほとんど偶然に発生した微細な差異が、その環境で生存し生き残るのにふさわしいものが自然によって「選択」され、長い年月を経てそれが蓄積して現在あるような姿になったということである。その「選択」はその生物にとって必要で有用であるものに対してだけでなく、不要で使用しなくなったものが「退化」することについても作用するのだった。

だがやはり、私は進化論に対して否定的な思いが強い。わたしには生物が今あるような姿になったのにはある「意志」のようなものが働いているとしか思えない。ダーウィンがしきりに言う「人間が栽培する植物において自然状態より変種が多く発生し交配によって変種が生まれていく」というのはまさに、生物の「進化」が外部の目的を持った意志のようなものの働きによって起こることを示しているように思えてならない。別に「創造」といっても、個々の生物をそれぞれ神が粘土をこねて箱庭に置くように造ったというわけではない。私は、ダーウィンの言う長い年月を経て繰り返される自然選択というものは、神が意図した創造が長い年月を経て完成した、ともいえるのではないかと思うのだ。

あらためて創世記も読み直してみた。そして気づいたのが、何度も繰り返される「種類に従って」創造されたという記述である。まるで、後に進化論が提唱されるのを予期して、そうではないのだとあらかじめ念を押しているかのように見えた。もしかして、進化論が発表されたあとに付け加えられた記述ではないかとさえ思ったが、King James Versionを読んでも

And God made the beast of the earth after his kind, and cattle after their kind, and every thing that creepeth upon the earth after his kind: and God saw that it was good.

というように、after his(their) kind と繰り返し書かれていた。


私だって子供のころに、いったんは「神が創造したなんて昔の無知な科学が未発達な時代の人々の誤った考えなのだ、天動説と同じように」と納得した。

しかし、ある時から私は進化論も、天動説も、絶対王政や貴族政治から民主主義になったことも、本当に正しかったのだろうかと、疑問を持つようになったのだ。

多様な生物が偶然あるいは環境に適応しようとして発生した変化が積み重なって自然にできあがったと考えるのが不思議で驚くべきことなのは、神が創造したと考えるのがそうであるのと同じくらいではないだろうか?


2023/10/10

PULP FICTION

1994年、クエンティン・タランティーノ監督・脚本。出演もしている。

当時非常に話題になった。劇場にはいかなかったが、DVDを借りて(もしかしてまだVHSテープだったかも)観た。話題になっているほどいい映画だとは思わなかったような覚えがある。

今回は最初Amazonプライムで見ようとしたのだが視聴期間の制限などがわずらわしいのでBluerayディスクを買った。

今回見返してみて、ややトリッキーであるのと、残酷なシーングロテスクなシーン薬物使用などのシーンが露骨すぎるのが気になりそれは初めて見た時も感じたことだったな、と思った。

特にコカインかヘロインか知らないが、女がオーバードーズして死にかけるシーンなどはただショッキングなだけでそこになんの感動もない。

主人公といえるような人物が何人か登場するが、やっぱりヴィンセント、ジョン・トラボルタがいいと思った。

サタデーナイトフィーバーで有名になった時からは風体もかわり、2枚目のいい男という感じではなくなっていたが、やっぱり話し方や表情は2枚目だった。


ジュールス(サミュエル・L・ジャクソン)が引用するエゼキエル25章17節については、私は読んだはずだがそんなところあったっけと記憶にもないし言ってること自体よく理解できなかったのだが、調べたらほぼでたらめの内容だった。


映画のセリフではなく、聖書の本来の内容を引用する。(25-15~17)


15主なる神はこう言われる、ペリシテびとは恨みをふくんで行動し、心に悪意をもってあだを返し、深い敵意をもって、滅ぼすことをした。 16それゆえ、主なる神はこう言われる、見よ、わたしは手をペリシテびとの上に伸べ、ケレテびとを断ち、海べの残りの者を滅ぼす。 17わたしは怒りに満ちた懲罰をもって、大いなる復讐を彼らになす。わたしが彼らにあだを返す時、彼らはわたしが主であることを知るようになる」。


最初は、特定の民族の名前が入っているから翻訳ではぼかしたのかと思ったがそんなレベルではない。そして、このセリフはタランティーノが好きな千葉真一出演の映画からの引用だそうである。

最後にジュールスがファミレス強盗をしようとした奴にこの句にからめて説教のようなことを言うのだが、その意味が私にはよくわからない。悪いことから足を洗いたいといいたいのか、自分のやっていることは犯罪だが自分なりに信念を持っている、みたいなことなのか、どちらでもないように思う。


ヴィンセントが麻薬を買うシーンは、タクシー・ドライバーでトラビスが銃を買うシーンのパロディーじゃないだろうか?カメラアングル、セリフ等、同じようだった覚えがある。

ブッチ(ブルース・ウィリス)の出てくる話と、ヴィンセントたちの出てくる話のつながりというか、二つの話を並べた必然性というようなものもしっくりこない。

言ってみれば支離滅裂でストーリーや登場人物の行動とか倫理とかそういうものをあえて軽んじた形式を見せる映画なんだろうけど。



2023/09/25

死ぬまでに読んでおきたいもの

アンナ・カレーニナ

東海道五十三次

ドン・キホーテ

精神現象学


一度読んではいるがもう一度読み直してみたいもの

白鯨

カラマーゾフの兄弟


白鯨はできれば原文を全部読んでみたい。


あと、ランボーとヴァレリーの詩を原文で読んでみたい。

ボードレールも。



2023/09/11

読書しながら別のことを考えてしまう件

私はよくある。というか、ほぼ100%そうなる。

仕事で必要な資料を読む時などにはならないのだが、趣味というか余暇というか、特に必要のない小説を読むときにそうなる。

自分で好きで読んでいるのになんでそれに没頭できず余計なことを考えてしまうのか。そして、別のことを考えているのになぜ読み続けているのか。これが不思議なことである。間違いなく私はその本を読んで文字を追いページをめくってもいる。しかし頭の中では別のことを考えている。自分が過去に経験したこととか、誰かに言われた言葉を反芻してその真意を考えてみたり、その言葉によって感情を刺激されて怒ったり滅入ったり恥ずかしくなったりさえする。それは読んでいる小説そのものではないのだが間違いなくその小説を読むことによって生じる現象である。

そういう人がいないかなと思ってWEBで検索してみるとけっこういるようだが、そのことに対して否定的なコメントがついており、「どうすれば読書中に余計なことを考えないようにできるか」みたいなことを書いている人もいる。

集中力がないのだとか、読書する環境が悪いのだとか、いろいろ言われている。

私は読書中に別のことを考えながら文字だけ追っている、という状態も全く意味がないこともないように思っている。先ほど書いたように、その状態は間違いなく読書することによって起きている現象であり、何もしないで椅子に座っていたりベッドに横たわっているときに何かを思い出しているのとはまた異なる状態である。

こうなってしまうのは性格や意志の問題と考えてもどうにもならない。もっと明確な理由がある。それは単純に、読んでいる言葉の意味が分からないからだ。小説を読むときに皆さんはわからない言葉があったら辞書を引くだろうか?私は引かない。読めない漢字があってもとばして読み進む。地名や人名などの固有名詞が出てきたときにそれについて調べることもしない。それでも読める本はあるが、時代や地理が自分のすごしているのと異なる場合、つまり海外の古典文学を読む場合などに、それが積み重なっていくと曖昧な概念で頭がいっぱいになり、作者が意図したイメージと読み手である私の持つイメージが全く異なるものとなり、いつしか字面を追うものの内容が把握できなくなり、気づいた時にはその情景がどこなのかこのセリフを語っているのが誰なのかどうしてそのような事態になっているのかなどがわからなくなっている。

あと、私は注釈がついていてもまず読まない。面倒くさいから。でも、読めない本については注釈も読んだ方がよい。注釈がついているのはだいたい翻訳もので訳者注のことが多い。私は訳者注について、その注釈の内容に疑問を感じることも多い。要は、あまり信用していない。ときどき、作者がなぜこんなことを書いたのかという意図まで説明していることがあるが余計なことを書くなと思う。しかし「読めない」場合は注釈に目を通した方がよい。

前に戻って読み直して理解できることもあるが、少し戻ってもわからない、あまりにわからないことが多すぎて読む気がうせてしまう。

こうならないようにするには、読書しながらノートをとるとよい。登場人物の名を書いておく。どの人物が重要なのかはわからないので、すべての人物について記録する。

印象に残った文章は書き写す。わからない言葉読めない言葉は辞書を引く。固有名詞も「そういう名前の何か」ですませず、調べる。今はインターネットがあるから、地名とか外国の固有の料理の名前とか人名とか、すぐに情報が手に入る。

こういうと、「長編小説を読むのにそんなことをいちいちしていられない」と思うだろう。

しかし、不思議なことにこのノートを付けることは、小説を読み進めていくうちにだんだん少なくなっていき、そのうちノートを付けなくても、不明な言葉を辞書で引かなくても読めるようになる。

私はトーマス・マンの「魔の山」とトルストイの「戦争と平和」を読むときにこの方法をとったのだが、どちらも途中でノートを付けることはほとんどなくなった。ただ、両方とも長いので、読んだ章の数字と、その章で何があった、だれが出てきた、程度はメモしていた。

 

読書しながら本に線を引いたり書き込みをしたりするのも、上の空になるのを防げるかもしれない。だが、私は本に線を引くことはまずない。やってみたこともあるが、線を引き始めるとやたらめったら引くことになり、また、線を引くと引いただけで読んだ気になってしまいかえって内容把握がおろそかになってしまうような気がする。

また、線を引くことの意味が、「感動した」「なるほど」「うまいことをいう」「意味がわからない」など多様になり、それについて色を変えたり波線にしたり点線にしたり、といったことをするのも、面倒だし、文章のリズムというのか、雰囲気というのか、そういうものが崩れてしまうような気がしてならない。


私は読書するときは、上の空になってもそのまま読み続けることにしている。完全に文章を理解できなくても、とりあえず読み進める。一言一句理解しないと読み進めないというような態度でいたら子供向けの童話や家電製品の説明書くらいしか読めない。

むしろ、自分が理解できない文章を自分の中に取り込んでいくことこそが読書のだいご味なのではないか。

そもそも、小説なんてある人が頭の中で作り上げたものである。もちろん、調査したり推敲したり、編集者などの校正を経たりしてはいるのだろうが、それだって人のしたことである。間違いもあるかもしれないし、話の進め方に無理があったり、説明不足があったり、作者の思い込みを読者に押し付けている場合もあるだろう。翻訳の場合はさらに翻訳がが作者の意図を取り違えていることがありうる。だから、わからないことがあってもあまり気にせず読み進めるべきだ。


2023/09/10

堀辰雄「風立ちぬ」

10年前に読んだという記事がこのブログにある。

自分でも「風立ちぬ」は読んだという記憶はあったのだが、どんな話だったか、どんな文体だったか、堀辰雄はどんな作家なのか、ということが全くと言っていいほど残っていないことに気づき、もう一度読んだ。

新潮文庫 平成25年118刷

110ページくらい。

堀辰雄は1904(明治37)年生まれ、1953(昭和28)年没

風立ちぬはサナトリウムが舞台で女性が病気で亡くなってしまう話である。
女性というのは恋人のような存在であり入院に付き添い父親とも対面するほどの仲である。
この話は事実に基づいていて、年譜を見ると婚約者であったらしい。
作中では付添人であるかのように描かれているが、この時堀自身も病気で二人で療養していたそうだ。

女性は亡くなるのだが、亡くなる描写はない。
症状が悪化して絶望的な状況になってきたことが描写されるところでいったん場面は転換し、
転換した後はすでに彼女が亡くなった後の日記形式である。

自分の婚約者が亡くなったという事実に基づいていてまだ30代前半であったばかりのことを書いているから無理もないが、非常に主観の強い、自分と女だけが隔絶されたような世界が描かれている。

一人称で語られたり日記形式だったりするものはよくある。ウェルテルなんかもそうだ。それにしても風立ちぬは主観が強く独善的とさえ感じた。

ちなみに歌謡曲やアニメのタイトルにもなっている「風立ちぬ」であるが、ポールヴァレリーの詩が出典である。

冒頭に原文が引用される。

  Le vent se lève, il faut tenter de vivre
  PAUL VALÉRY

そして作中は訳文で引用される

 風立ちぬ、いざ生きめやも。


「生きめやも」ってどういう意味?フランス語より不明。


(推量の助動詞「む」の已然形「め」に反語の意を表わす係助詞「や」、
詠嘆を表わす係助詞「も」の付いたもの) 「めや」の反語の意に詠嘆の意が加わったもの。
…することがあろうか、いやそんなことはない。どうして…でなどあろうか。

※万葉(8C後)一・二一「紫のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑに吾れ恋ひ目八方(めやも)」
※古今(905‐914)恋一・五一二「たねしあれば岩にも松はおひにけり恋をし恋ひばあはざらめやも〈よみ人しらず〉」




これはどうやら誤訳のようで、本来の意味は「生きようとしなければならない」という生に対して肯定的な意味であり、堀辰雄の訳では「生きられようか(できない)」という否定的な意味になるそうである。


もしかしたら意図して本来の意味と違うように訳したのかもしれない。
もしくは、あまりに絶望していたので生きるべきというところを生きられない、と読んでしまったのか。

私も洋楽の歌詞などを自分の独特の解釈で「誤解」してしまうことはよくある。


ついでなので原文をコピーしておく。
残念ながら原文は理解不能、訳文を読んでもよくわからない。


LE CIMETIÈRE MARIN

Μή, φίλα ψυχά, βίον ἀθάνατον σπεῦδε, τὰν δ’ ἔμπρακτον ἄντλεῖ μαχανάν.
PindarePythiques, III.


Ce toit tranquille, où marchent des colombes,
Entre les pins palpite, entre les tombes ;
Midi le juste y compose de feux
La mer, la mer, toujours recommencée !
Ô récompense après une pensée
Qu’un long regard sur le calme des dieux !

Quel pur travail de fins éclairs consume
Maint diamant d’imperceptible écume,
Et quelle paix semble se concevoir !
Quand sur l’abîme un soleil se repose,
Ouvrages purs d’une éternelle cause,
Le Temps scintille et le Songe est savoir.

Stable trésor, temple simple à Minerve,
Masse de calme, et visible réserve,

Eau sourcilleuse, Œil qui gardes en toi
Tant de sommeil sous un voile de flamme,
Ô mon silence !… Édifice dans l’âme,
Mais comble d’or aux mille tuiles, Toit !

Temple du Temps, qu’un seul soupir résume,
À ce point pur je monte et m’accoutume,
Tout entouré de mon regard marin ;
Et comme aux dieux mon offrande suprême,
La scintillation sereine sème
Sur l’altitude un dédain souverain.

Comme le fruit se fond en jouissance,
Comme en délice il change son absence
Dans une bouche où sa forme se meurt,
Je hume ici ma future fumée,
Et le ciel chante à l’âme consumée
Le changement des rives en rumeur.

Beau ciel, vrai ciel, regarde-moi qui change !
Après tant d’orgueil, après tant d’étrange
Oisiveté, mais pleine de pouvoir,
Je m’abandonne à ce brillant espace,
Sur les maisons des morts mon ombre passe
Qui m’apprivoise à son frêle mouvoir.


L’âme exposée aux torches du solstice,
Je te soutiens, admirable justice
De la lumière aux armes sans pitié !
Je te rends pure à ta place première :
Regarde-toi !… Mais rendre la lumière
Suppose d’ombre une morne moitié.

Ô pour moi seul, à moi seul, en moi-même,
Auprès d’un cœur, aux sources du poème,
Entre le vide et l’événement pur,
J’attends l’écho de ma grandeur interne,
Amère, sombre, et sonore citerne,
Sonnant dans l’âme un creux toujours futur !

Sais-tu, fausse captive des feuillages,
Golfe mangeur de ces maigres grillages,
Sur mes yeux clos, secrets éblouissants,
Quel corps me traîne à sa fin paresseuse,
Quel front l’attire à cette terre osseuse ?
Une étincelle y pense à mes absents.

Fermé, sacré, plein d’un feu sans matière,
Fragment terrestre offert à la lumière,
Ce lieu me plaît, dominé de flambeaux,
Composé d’or, de pierre et d’arbres sombres,

Où tant de marbre est tremblant sur tant d’ombres ;
La mer fidèle y dort sur mes tombeaux !

Chienne splendide, écarte l’idolâtre !
Quand, solitaire au sourire de pâtre,
Je pais longtemps, moutons mystérieux,
Le blanc troupeau de mes tranquilles tombes,
Éloignes-en les prudentes colombes,
Les songes vains, les anges curieux !

Ici venu, l’avenir est paresse.
L’insecte net gratte la sécheresse ;
Tout est brûlé, défait, reçu dans l’air
À je ne sais quelle sévère essence…
La vie est vaste, étant ivre d’absence,
Et l’amertume est douce, et l’esprit clair.

Les morts cachés sont bien dans cette terre
Qui les réchauffe et sèche leur mystère.
Midi là-haut, Midi sans mouvement
En soi se pense et convient à soi-même…
Tête complète et parfait diadème,
Je suis en toi le secret changement.

Tu n’as que moi pour contenir tes craintes !

Mes repentirs, mes doutes, mes contraintes
Sont le défaut de ton grand diamant…
Mais dans leur nuit toute lourde de marbres,
Un peuple vague aux racines des arbres
A pris déjà ton parti lentement.

Ils ont fondu dans une absence épaisse,
L’argile rouge a bu la blanche espèce,
Le don de vivre a passé dans les fleurs !
Où sont des morts les phrases familières,
L’art personnel, les âmes singulières ?
La larve file où se formaient des pleurs.

Les cris aigus des filles chatouillées,
Les yeux, les dents, les paupières mouillées,
Le sein charmant qui joue avec le feu,
Le sang qui brille aux lèvres qui se rendent,
Les derniers dons, les doigts qui les défendent,
Tout va sous terre et rentre dans le jeu !

Et vous, grande âme, espérez-vous un songe
Qui n’aura plus ces couleurs de mensonge
Qu’aux yeux de chair l’onde et l’or font ici ?
Chanterez-vous quand serez vaporeuse ?
Allez ! Tout fuit ! Ma présence est poreuse,

La sainte impatience meurt aussi !

Maigre immortalité noire et dorée,
Consolatrice affreusement laurée,
Qui de la mort fait un sein maternel,
Le beau mensonge et la pieuse ruse !
Qui ne connaît, et qui ne les refuse,
Ce crâne vide et ce rire éternel !

Pères profonds, têtes inhabitées,
Qui sous le poids de tant de pelletées,
Êtes la terre et confondez nos pas,
Le vrai rongeur, le ver irréfutable
N’est point pour vous qui dormez sous la table,
Il vit de vie, il ne me quitte pas !

Amour, peut-être, ou de moi-même haine ?
Sa dent secrète est de moi si prochaine
Que tous les noms lui peuvent convenir !
Qu’importe ! Il voit, il veut, il songe, il touche !
Ma chair lui plaît, et jusque sur ma couche,
À ce vivant je vis d’appartenir !

Zénon ! Cruel Zénon ! Zénon d’Élée !
M’as-tu percé de cette flèche ailée

Qui vibre, vole, et qui ne vole pas !
Le son m’enfante et la flèche me tue !
Ah ! le soleil… Quelle ombre de tortue
Pour l’âme, Achille immobile à grands pas !

Non, non !… Debout ! Dans l’ère successive !
Brisez, mon corps, cette forme pensive !
Buvez, mon sein, la naissance du vent !
Une fraîcheur, de la mer exhalée,
Me rend mon âme… Ô puissance salée !
Courons à l’onde en rejaillir vivant !

Oui ! Grande mer de délires douée,
Peau de panthère et chlamyde trouée
De mille et mille idoles du soleil,
Hydre absolue, ivre de ta chair bleue,
Qui te remords l’étincelante queue
Dans un tumulte au silence pareil,

Le vent se lève !… Il faut tenter de vivre !
L’air immense ouvre et referme mon livre,
La vague en poudre ose jaillir des rocs !
Envolez-vous, pages tout éblouies !
Rompez, vagues ! Rompez d’eaux réjouies
Ce toit tranquille où picoraient des focs !



2023/08/09

宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」

小学校6年生の頃、近所の図書館で宮沢賢治全集を借りて全部読んだ。大人になってからも宮沢賢治の作品は思い出したように読んでいる。私にとって宮沢賢治はただの作家でも童話作者でも詩人でもない、特別な存在である。

「銀河鉄道の夜」は、宮沢賢治の作品の中でも知名度が高い方だろう。おそらく、松本零士の「銀河鉄道999」のせいだ。私も、999を知った後で宮沢賢治を知った。

しかし、全集を読んだ私に言わせてもらうと、「銀河鉄道の夜」は宮沢賢治の作品としては少し異色である。そして、そんなに傑作だとも思わない。

風の又三郎とか、よだかの星とか、ツェねずみとか、どんぐりと山猫とか、もう内容もうろ覚えだがそういう小品みたいなものの方が楽しく読めるし宮沢賢治らしいと思う。「注文の多い料理店」も有名だが、これは本当に彼が書いたのかと思うくらい、これも異色である。


ただ、「銀河鉄道の夜」には他の作品にない壮大さというか、不気味と言ってもいいくらいの神秘的なものがあって、自分の心の中にも理解不能のままずっと残っている。

改めて読んでみた。

この作品のメインの部分、「銀河鉄道」に乗って小旅行をする部分は夢である。そう明記されている。

他人の幸せのためなら自分はどうなってもいいと話す二人だが、その話の通りに主人公ジョバンニの友人カムパネルラはいじめっ子と言えるようなザネリが溺れたのを助けて亡くなってしまう。

登場人物の名前がこのような西洋人の名前になっているのも珍しいことだ。

小旅行は夢なので幻想的で非現実的な風景が描かれる。初めて読んだ時もその後何度か読み直した時もいつも面食らって、映像を想像することもできないところも多い。

明らかにキリスト教のイメージが反映している。それは聖書の内容であるとかイエスの言葉とかではなく、あくまでもキリスト教に伴うイメージ、雰囲気といったものにすぎない。でも、誰かの幸せのために自分はどうなっても構わないという考えはやや過激ではあるがキリスト教の考えである。

彼の宗教的なバックボーンというか信仰していたのは仏教、法華経とかであり、私は詳しくないが仏教には自分の身を犠牲にしてまで他人の幸せを願う考えはあまりないのではないだろうか?

「銀河鉄道の夜」は子供向けのほのぼのしたメルヘンなどではなく、心が苦しくなり身につまされ、不気味さも持ち合わせた、やっぱり難解な異色作である。



2023/07/10

レコードプレイヤーの回転が速い

Dire Straitsの Brothers in Arms のアナログレコードを買って聴いていたら、

どうも速い。試しに、iPhoneにも入っているから、同時(きっかり同時にかけるのは難しいのでほぼ同時)にかけてみたら、レコードの方がどんどん先に進んでいく。

まずは、レコードプレイヤーの回転速度調節みたいなものがあるだろうと思って調べて、確かにあることはわかったのだが、

それはプレイヤーにドライバか何かを突っ込んでねじみたいなものを回して調整するというものであった。

だが、それはやる前に、難しい作業になることが想像できた。

どれだけねじを回したらどれだけ回転数が変わるか。

ちょっと回しては確認し、再度回して、と繰り返さないといけない。そして、ねじを回すときとレコードをかけて回転を確認するときにいちいちひっくり返したりレコードをどけたりアームやテーブルが動かないようにテープでとめたりしなければいけない、などと考えて、やる気になれなかった。


プレーヤーの取扱説明書にはなんと書いてあるのだろうとみてみたら、回転数調整についての記載はなかった。

その代わり、「ベルトは消耗品だから1年に1回を目安に交換してください」と書いてあった。

これだ。ベルトが緩んでしまったのだ。

偶然だが、回転調節できる穴を探しているときにプレイヤーをひっくり返したらテーブルが外れ、中にあるベルトが見えた。

こんな細いゴム紐で回しているのか、こんなものすぐに伸びたり劣化したりして回転数なんかくるって当然だ、と気づいた。

(でも、緩んだら回転は遅くなりそうなものだけどな... 湿気などの関係で縮んだりするこtもあるのだろうか... )とも思ったが。

交換用ベルトはプレイヤーを買った店などで簡単に変えると思ったが店にはおいていず、メーカーサイトで注文したがすぐには来ないだろうと思い、

アマゾンで買おうとしたらたかがゴム紐なのに非常に高額で、

結局秋葉原の千石電商で買ったのだが1本2000円ほどして、

取り替えてみたが、


改善しなかった.....。


2023/06/18

ビートルズ

youtubeでおすすめに表示されたのをきっかけに、ビートルズについての動画を観ていて、なんだかんだで私はビートルズの曲をほとんど全部聴いていたことにあらためて気づいた。

私は普通、洋楽のアーティスト・バンド名をカタカナで書かない。Bob Dylan, Sex Pistols,  Led Zeppelin, Deep Purpleなど。「ボブ・ディラン」「レッド・ツェッペリン」「ディープ・パープル」などと書くのはカッコ悪い。

しかし、ビートルズについては、The Beatlesと書くのはなんだか違和感がある。彼らはもはや、単なるひとつの洋楽のバンドではなく、それだけで一つのジャンルとなってしまっているようなところがある。


ビートルズを聴くようになったきっかけは何だっただろうか?子供のころはテレビで歌番組を見るのが好きで、やがてラジオのランキング番組を聴くようになった。当時はランキング番組(ベストテン番組)がたくさんあって、日曜日は朝から夕方までラジオを聴いていることも多かった。不二家歌謡ベストテン、全日本歌謡選抜など。歌謡選抜は文化放送の番組で確か午後1時から放送が始まる。番組を聴いている人からの電話リクエストを生で受け付けて、3時半からランキングを発表していき、4時半に終わる。

中学生になるといわゆる「洋楽」というものに興味を持った。FMラジオから雑音の中で途切れ途切れに流れてきたカルチャークラブの「君は完璧さ」を聴いて衝撃を受けた。歌謡曲とはまったく違う、洗練された高級な音楽だと直感的に感じた。

ビートルズは解散して10年以上たっており、ジョンレノンがなくなってからも2年がたっていた。そのころ私はビートルズは過去のバンドだと思っていたが、今から10年前なんて2010年代、今の私にとっては「ついこの間」であり、その頃流行っていた音楽すら、新しすぎて知らない、となってしまっている。

中学2年か3年のあるとき、FM東京のマイサウンドグラフィティという夜中の3時ごろやっていた番組で、ジョンレノン特集をやった。45分の放送で、何回かにわけて放送されたのだが、私はそれをキッチンタイマーなどを使ってカセットテープに録音して、繰り返し聴いた。しばらくはビートルズの曲を聴くと、そのときのテープに入っていた曲順を思い出してこの次はアレ、というくらいだったがさすがにもう今はそれはない。

その後、ビートルズのアルバムを聴くようになったが、そのジョンレノン特集に入っていた曲以外にめぼしい曲があまりなく、ビートルズとはジョンのバンドだったのだなと思った。

当時はよくわからなかったが、今では聴けばどの曲がジョンでどの曲がポールか大体わかる。基本的に曲を作った人が歌うからだ。聴いてわからなくても調べればわかる。

私はジョンレノンが好きで、ポールの曲はあまり好きではないが、ビートルズのアルバムとして名盤だなと思うものはポールが活躍しているものが多いことに気づいた。Sgt. Pepperとか、white albumとか、Magical Mystery Tourとか。

ただし、やっぱり、今でも、興ざめしてスキップせずにいられないポールやジョージの曲はある。ジョンの曲でそういうのはほとんどないのに。

2023/05/28

福岡伸一「動的平衡」

 だいぶ前に話題になった本。題名にも興味があって読んでみようと思っていたがずっと読まずにいた。

買ったのは2017年発行の新版だが、最初に出版されたのは2009年だからもう15年ほどたっている。


最近読まない本がたまっていて整理しないといけないなとおもって本棚をながめていて、目に留まった。

この手の本はあまり読まない。高校から大学生のころ、ブルーバックスを何冊か読んだ。都築卓司さんの本が面白かった。この本もそういう分野のものだと思って読んだが、いまいちで、半分くらい読んであとは流し読みした。


生物は常に変化しつつ一定の状態を保っている、みたいなことは面白いなと思ったのだが、結局それ以上のことはあまりわからなかった。

生物学についてのいろんなエピソードが語られており、STAP細胞、iPS細胞などのことなどもそんなこともあったっけ懐かしいなと思いながら読んだが、事実や用語の説明がたんたんと並べられていて、期待したような中身ではなかった。

食物は分解されるから不足しているものを摂取するのは意味がないとか、胃袋の中も体にとってはちくわの穴の中のようなもので外側である、みたいなことはなるほどとは思ったが、本に書くほどのことでもないと思った。


2023/05/15

JuJu Club

1998年に韓国に行った。

確か帰りの空港でだったと思うが、韓国ポップス名曲集みたいなCDを買った。

そのCDで、JuJu Clubという韓国のバンドを知った。


「バンド」である。ボーカルは特徴のある声の女性でJuJu Clubの最大の特徴でもあると言っていいと思うが、私はバンドとしてJuJu Clubに興味を持ち、気に入り、彼らの発表しているCDを集めた。

そのときにすでに三枚のアルバムが出ていて、2000年に四枚目がリリースされ、すべて買った。

一般的には「韓流(ブーム)」といえば、「冬のソナタ」からということになるだろう。2003年ごろである。それよりは少し前だ。

私にとって韓国は単なるブームではなかったのだが、1998年ごろにも軽い「韓国ブーム」みたいなものがあったような記憶がある。


帰国後、その韓国ポップス集のCDを何度も聴いて、日本の音楽、それはテレビで活動しているようなアイドル的な歌手やグループに限らず、ニューミュージック(古い言い方)とかJポップとか言われるような、本格的なミュージシャン達と比べても、異質なもの、もっというと日本よりもカッコいい、優れた、洗練された、クールさ、そんなものを感じた。


その中でもJuJu Clubは特に気に入った。

このバンドにはユーモア、無邪気さ、切なさ、エスニックなものなど多様なものがあった。


JuJu Clubは韓国でどれくらいの知名度なのか、日本でもそのうち売れるのでは、いや世界的に認められるのでは、くらいに思ったが、その後特にメジャーになることはなかった。


それからしばらく経って、いつ頃だったか覚えてもいないが、

彼らの発表した曲、私が買ったCDに入っている曲の中で、有名な曲にそっくりなものがあることがわかった。

私が把握しているのは以下の三曲である。

"Denis" Blondie

"Carnival" Cardigans

"Bizarre Love Triangle" New Order


Denisについては、確かクレジットにBlondieの曲であると書いてあるが、それ以外は書いていない。
歌詞は韓国語で、編曲もそっくりなのだが微妙に違っていて「カバー」でもなく、少なくはあるがインターネットで確認できる情報からしても、悲しいことだが「盗作」であると言われても仕方がないようだ。

2002年に解散したようである。


後記
以前にほぼ同じ内容のことをすでに書いていたがすっかり忘れていた。
が、残しておく。