岩波文庫。神谷美恵子訳。
1956年第一刷、1981年第29刷の、古本屋で買ったものである。
著者のことは、世界史の授業で「マルクス・アウレリウス・アントニヌス」という、ローマ皇帝の中でも五賢帝の一人で名君として有名な人物だとして習って知っていた。
また、後漢書にある「大秦王安敦」は彼のことだと覚えていたが、彼またはアントニヌス・ピウスと言われているようだ。
とくに何かを論じているというわけではなく、短いつぶやきのようなものの集まりである。
「自省録」と言っても、自分のことを見つめて反省しているというより、万人に対して、人はこのように生きるべきだと教え諭すような言い方である。
西暦121年に生まれた人であるが、言っていることは現代でもほとんど「常識」であるといってもいいくらいに違和感がない。
人物としては繊細で温和で内向的で、両親や教師などに非常に愛されたのだろうな、ということがうかがえる。
私はこれを寝る前に少しずつ読んでいったのであるが、だんだん、「この人はイエスを、キリストをどう思っていたのだろうか」ということが知りたくなった。
「神」という言葉はたくさんでてくるのだが、それはもちろんキリストのことでもなければ聖書にでてくる神でもない。
プラトンやソクラテスの名前がよく出てくる。
解説などによると彼の思想は「ストア派」に分類されるらしい。
禁欲的で、自然に従うことを説いている。
キリスト教については、まったく触れられていないと言ってよい。解説にも「言及しているとおぼしき箇所がいくつかあるがきわめて皮相」とある。
マルクスアウレリウスの時代はキリスト教が迫害されていた時代にあたる。
解説では彼は以前からの法律を踏襲していただけで積極的に迫害していたわけではない、と書いてある。
たしかに、「自省録」に書いてあることを考えているような人であれば、熱心に説かれたらキリスト教は受容されたのではないかと思える。
彼はいわゆる「まじめないい人」である。
おそらくキリスト教は狂信的なカルトであると認識していて、それがどんなものかなど興味ももたなかったであろう。
本書については、わたしはそれほどすばらしい名著だとは思わなかったし、著者についても尊敬にまでは至らなかった。
それはなんといっても、世界についての苦悩や、矛盾に対する疑問のようなものがほとんど見られないからだ。
子供をあいついで亡くしていて、それについて何度か触れられているが、結局しかたがないことだからあきらめるべきだと言っている。
「賢帝」とか「哲人皇帝」とかいっても、なんせローマ皇帝だからね。
何不自由なく暮らしていたはずだ。たくさんの人の貧しい暮らしの上で。