2012/10/23

魔の山 (4)

四章まで読み終わった。

ハンスが病気であることが発覚するところまでである。

岩波文庫は上下の2冊に分かれているのだが、なかなか読めないので、
私は上下巻をそれぞれ半分ずつに分けた。カッターで切った。
上巻の半分は四章までである。

残り半分が五章だ。五章だけ他の章に比べて長い。



後で編集付記というものがあるのに気づいたのだが、
それによると岩波文庫はもともと4分冊だったのを、1988年に2分冊にしたそうだ。


というわけで、全体の約四分の一を読んだことになる。
内容的にも、「起承転結」の起の部分というところだろうか。


なかなかおもしろい。
おもしろいというのは、ファニーという意味である。
何度か笑った。セテムブリーニとか、ベーレンスの皮肉っぽい言い回しなどで。

主人公のハンスと従兄のヨーアヒムは、「かわいい」と言っていいくらいの無邪気な青年である。
翻訳の文体のせいもあるかもしれないが。

しかし、彼らを取り巻く人々の描写は冷酷というか、差別的とも言える。
まるで珍獣の展覧会のようである。


そのなかにマダム・ショーシャという女性がいて、ハンスが彼女に興味を持っていることが描かれる。ただそれは若い男子が女性を恋するというような単純なものではない。

まず、彼が少年の頃に興味をもった男子についてのエピソードが語られる。
そして、マダム・ショーシャはその男子に似ているのである。

「ベニスに死す」を読んでいるし、トーマス・マンがどういう人だったかというのも多少知っているから、この辺のくだりを読んだときには、ハハーン、そういうことか、と思ってしまう。

ただし、別に同性愛とかなんとかではなく、少年の頃に同性の友人を尊敬とか親しみ以上のあこがれのようなまなざしで見ることは私にも経験があり、それを同性愛だと言うのはちょっと違うと思う。


それから、この作品は「教養小説」というジャンルに分類されるらしい。
教養小説というのは、主人公の内面的な成長を描くというようなものらしい。

四章まででは、クロコフスキーの講演とセテムブリーニの文学、音楽、政治などについての話をハンスが聴くところが教養小説といわれるところなのだろう。

だが、私は少なくとも「魔の山」は、「ハンスの内面的成長を描く」などというものではないと思う。
私が本作をなんとしても読みきろうと思っているのは、「これは教養小説などではない」と言いたいが為であると言ってもよい。


小説の主人公というのは、平凡で無性格なのが好ましい。
また、何か強烈な目的意識や主義主張を持っていないほうがよい。

夏目漱石の小説の主人公も仕事もせず遺産で暮らしているような男ばかりである。

そのことを批判する意見も見るが、それは間違っている。


そもそも、しっかりとした目的意識があり、実務に専念できるような人間に文学など必要ないのである。
「いい大人になってもすることがない人間が作家になる」というようなことを、誰かは忘れたが有名な作家が言ったという。


セテムブリーニとかクロコフスキーのような登場人物が作中で演説のようなことをする。
ドストエフスキーの作品でも、作中で一個の論文を読み上げるようなセリフが出てくる。

こういうものは作者の主張そのものではない。

もし作者が主張したいことがあるなら、わざわざ作中人物に語らせずに、本人の名で直接語ればいいのである。
その前に、小説を書くことすら必要ない。


基本的に小説の題材になることは、批判の対象である。
もしそれが作者の理想であったり、目指すものであったりするなら、
それは小説という架空の世界でなく、実際に自分が行動して実現すべきなのである。


ただ、小説とは、文学とは、批判が目的なのでもない。
「人間はかくあるべし」という模範を示すものでもない。
だから、「教養小説」などというものは、私は認めない。

「魔の山」はおもしろい。
ファニーと言ったが、その要素もあるが、インタレスティングでもある。

芸術には、オチなどというものはない。
あったとしても、それはごく表面的な形式上のものにすぎない。


夏目漱石の「こころ」は、「過去の三角関係を苦にして自殺した男の話」だというのは、
ある意味正しいがほとんど無意味なことだ。
「人間も動物である」というようなものだ。

「魔の山」も、「ハンスの成長を描いた物語」などというものではない。




2012/10/22

小説が読めない

朝9時半ごろから20時ごろまで、昼と夕方の食事の時間以外はほぼずっと読んでいたが、
186ページしか読めなかった。

辞書を引いたりメモをしたり引用したりしたので普段より時間はかかっているが、
10時間くらいかけて186ページは遅いな・・・。

1時間に18ページ、1ページに3分以上かけていることになる。

最近本が読めないなと感じていて、今日は時間はかかったが久しぶりにある程度の量が読めたと喜んでいたのだが、最後の方はいつものように頭に入ってこなくなった。

単純に、アタマの持久力みたいなものが落ちたのだろうか。

簡単に言えば、「飽きた」という状態だ。

なんで飽きるのか。

何を言っているのかわからないなら、読めない。
知らない外国語の本が読めないように。

だが、読めるのに、読んでいるのに頭に入らないことがある。

外国語の翻訳というのもあるかもしれない。
しかも40年以上前に書かれたものだ。

「ざんねん」とか、時々変な言葉をひらがなで書いていたりしてイライラする。

意味がわからなくて、「誤訳じゃないか?」
と思うところもある。


人が書いたものであるから、書き手が不親切であったり、書き手がつたないということもあり得る。
翻訳であればその危険性は倍になる。

ただ、今読んでいるのはノーベル文学賞をとった作家の、20刷以上も発行され続けている本である。


「難しくて読めない」のだろうか。
語彙が足りないから理解できないのだろうか。


私が本を読む態度は、古い映画を見るような感じである。
フィルムについた汚れとか傷とか、音もこもっていたりして聞き取りづらいような映画を見るときは、
その汚れを気にしてはいられないし、一言聞き取れなかったとしても話の流れなどからだいたいこういう意味だろうと自分の頭の中で補完しつつ見る。

それは、誰でも多かれ少なかれしていることだろう。
何もかも作者の意図をすっかり理解できることのほうがまれだろう。


だが最近はその、「よくわからないことは飛ばす」という態度が行き過ぎてしまい、わかるわからないの前に最初からところどころ読み飛ばしてしまうことがある。

あと、読む前からその作品や作者についての先入観があって、最初から批判的になってしまうとか。

マルクスを読むときなどは、もうガチガチにガードを固めてしまう。


トーマス・マンの作品は、「トニオ・クレエゲル」と「ベニスに死す」を読んだ。
ベニスはおもしろかったのだが、トニオはつまらなかった。
反感さえ覚えた。

魔の山を初めて読んだときも、ハンスに反感をおぼえた。

ではなぜトーマス・マンを読もうとしているのか。
それは三島由紀夫と平野啓一郎が名前を出したからである。

あと、読んでみて、トーマス・マンとはこういう作家である、こういう作品を書く人である、
ということが自分なりにつかめないからである。


そもそも私は文学というもののよさがあまりよくわからない。

いいなと感じた小説はないこともないが、本当に「わかって」いるのかは怪しい。

単に文体が気に入ったとかだけなのかもしれない。

もしかして文学なんて文体だけなのかもしれない。
主人公が善行をするのがよい小説であるわけではない、というのは間違いない。

私は、芸術というのは意味がないほどよいものだ、という考えを年々強くしている。
ただ、一部の前衛芸術のようにまるっきり意味がないもの、というか、
あえて無意味にしているようなもの、それも芸術ではない。

まったく支離滅裂だと、もちろんダメだ。
かといって、特定の思想を広める目的があったり、
人情や感情に訴えるものであってもダメなのだ。


たとえば自分の命をかえりみず人を助けるとか。
これは感動的なことでありもちろんそのこと自体を否定するのではないが、
芸術ではない。

つまり、「塩狩峠」は芸術ではないのである。

バッハの「マタイ受難曲」を全面的にすばらしいと言えないのも、イエスの磔を題材にしているからである。

聖書を芸術だと思って読んでいる人は、いるかもしれないが、けしからん読み方である。
もちろん私は芸術だと思って読んでいるわけではない。


そもそも、芸術は怪しからんものになりがちである。
怪しからん事をするのが芸術だ、みたいな考えの人もよく見る。

それは芸術が善行の奨励ではないということを示すための皮肉としてほのめかす程度ならいいのだが、反道徳を主義としているような人も違うと思う。


私はそんなことを考えながら読んでいる。
悩みながら、芸術そのもの、文学そのものを否定したくなることすらある。
「こんなもの読む価値はないのではないか」
という気持ちに頻繁におそわれる。

読書の補助

なかなか読めない本を読むために私がすること、したこと。

1.線を引く
2.書き込みをする。素朴な疑問でもなんでも。
3.段落に番号をふる。
4.訳注を切り離して随時参照する。切り離さないとめくるのが面倒で見なくなる。
5.登場人物の人名を記す。この紙も切り離してすぐ追記・参照できるようにする。
6.ノートにキーワードや気になった表現などを書き抜いていく。情景でわかりにくいものは図にしてみる。
7.読んだページ数とかかった時間を記録して読書速度を測る。


魔の山 (2)

3章の途中まで読んだ。

国語辞典で知らない言葉を確認しながら。

地名をgoogleマップで調べたり。

「ハルフェシュテフート通り」という地名が出てきたので検索したが見つからず。
ドイツ語で調べれば見つかるだろうがどう綴るかがわからない。

その後に出てきた「ウーレンホルスト」は訳注でUhlenhorstであることがわかり、
それを調べると近くに Harvestehude というのが見つかった。

家の間取りとか、食堂のテーブルの配置などを図にしてみたりする。
何度読んでもよくわからなかったりするけど・・・

「べんけい縞」のズボンというのが出てきて、イメージ検索で調べる。
「ほほける」とか。

言葉遣いがちょっと古めかしいのは、昭和37年の翻訳だから仕方ない・・・。
でも、昭和37年にしてはそんなに違和感はない。
おそらく「名訳」なのでしょう。

もしくは、翻訳しやすいきれいなドイツ語なのかな。



重要なキーワードは「時間」である。
前書きで著者が注意をうながしているし、随所で時間に触れられている。

セテムブリーニというイタリア人の「文学者」が魅力あるキャラクターだ。
この人物のことは挫折しながらもよく覚えている。

今先の方をぱらぱら見ていたが、最後の方までずっと出てくる重要なキャラクターのようだ。




魔の山 (1)

「魔の山」を読むことにした。

今わけあって時間があるのと、先日文字数を数えて恐れるほどのボリュームでないこともわかったからだ。

3、4回トライしているが挫折している。


そこで今回は、熟読することにした。
熟読といっても、書かれている内容を吟味するのではなく、知らない言葉は辞書を引いて調べ、人名が出てきたらそれをメモし、主人公との関係などを記録しておく。

気になる表現や、気に入った表現、意図がよくわからない表現などは抜書きする。


書かれている内容自体を熟考し吟味するときりがないので、とりあえず固有名詞とか、聞いたことのない言葉や、なんとなく想像はつくが正確に説明できない言葉等を調べる。

また、知っている言葉でも、自分が使うくらいに慣れ親しんでいない言葉は、書き出す。


これらのことを、紙のノートに書き付けておこなう。

今、前書きから第一章の「到着」という節(?)をこの方式で読んだ。
15ページくらいだが、1時間くらいかかった。
1ページあたり4分かかったことになる。

これくらい気合をいれて読めば、読みながら上の空になることはない。


このペースで全部読むと大変な時間がかかることになるが、
メンドクサイのは最初だからだ。


この読書は、単に「魔の山」を読むというだけでなく、
最近感じている読書力の低下を止め、読書法を再考する目的もある。



2012/10/16

魔の山の文字数

トーマス・マンが書いた、「魔の山」という小説がある。
私はこれを読んでみよう思って、岩波文庫を買った。
分厚い上に上下2巻あって、最初の3章くらいまで読んで挫折している。

何度かトライしたのだがだめで、あるとき上下巻をそれぞれ半分ずつに切って、
全4巻にしてある。

先日自分のツイートやブログの文字数を数えたが、「魔の山」はどれくらいなのだろうと思って数えてみた。

1行43文字、1ページ19行。全部で1257ページある。
文字数にすると約102万(1026969)字、原稿用紙に換算すると2568枚である。

先日数えた私が書き散らしたブログの文字数より少ない。
さらに、私の文章は実文字数だが、この文字数は1ページに改行も字下げもなしにぎっしり書いたとしての計算である。


私の読書のスピードは普通だと思う。だいたい、文庫本で1ページ1分くらいが目安である。
以前、自分の読むスピードはどれくらいなのだろうと、実際に読んで測ってみたことがある。読んだのは夏目漱石の「こころ」である。

新潮文庫で、41文字×18行、738文字であるから、分速700文字程度ということになる。
こころは非常に読みやすい文体であるから、速く読めたと思う。
その後、ときどき読んだページ数と時間から速度を測ってみたが、だいたい同じくらいである。
測っていないが、「魔の山」はもっと時間がかかるだろう。


でも、もし1分1ページで読むとすると、魔の山を全部読むには1257分あればよいことになる。
21時間くらいだ。一日3時間ずつ読めば1週間で読めることになる。

そんなものか。

2004年発行のものだから、もう最大8年くらいは経っていることになる・・・。


2012/10/15

広告

このブログに広告をのせた。google adsenseである。
理由は、カネである。1円でもいいからカネが欲しいのだ。
(実際は1万円単位で支払われるらしいが)

私はインターネットの広告が大嫌いだし、インターネットで何か検索してその結果表示される広告をクリックして何か買う人なんてバカじゃないのかと思っている。

しかし、googleはそれによって大成功したのであり、google以外でもインターネット上のサービスはすべて広告によって利益を得ていると言っても過言ではない。だから、実際に効果があるのであろう。

私のブログは宣伝をしていないどころか、誰にもこんなものを書いていることを教えたことはなく、知っている人に見られたら恥ずかしいので個人情報などを書かないように細心の注意を払っているくらいだ。

そんなブログでも、統計情報を見ると、一日に数件程度であるがアクセスがある。検索エンジンの検索結果に私のブログの記事も表示されるのである。

このブログはまだ書き始めたばかりだが、ここではないあるサイトに書いた文章は、あるキーワードで検索するとトップに表示される。そんなに特殊な言葉ではないので少し驚いた。

SEO(だっけ?)とかいう、「いかに検索結果の上位に表示するか」ということが研究され、それを商売にしている人さえいるらしいが、ある程度検索語を選択し組み合わせるなどすれば、自分が書いた文章などはかんたんにgoogleで検索することができる。

このことは便利というより恐ろしいことである。


というわけで、私のブログにアクセスした人が広告をクリックするかもしれないと思って、広告をのせた。また、自分が書いているようなくだらない無色透明なブログにどんな広告が表示されるのかも興味があった。

読者のみなさんには是非広告をクリックして商品を購入して頂きたい。

原稿用紙3750枚

twitterのアカウントを分析してくれるwhotwiというサイトで、私の今までツイートした文字数が50万字であることを知った。
50万字は400字詰め原稿用紙で1250枚になる。

twitter歴は約2年半である。

1日あたりにすると原稿用紙1枚ちょっとくらいで、たいしたことはないようだが、
それを2年半続ければ1250枚にもなるのである。継続は力なりである。

もっともツイートなんか、特に私は、思ったことを何も考えず推敲なども一切なく、「腹減った」だの「眠い」だののようなものばかりなのできわめて内容は薄い。

でも、それにしても、50万字ものツイートをしていたとは驚きだった。


私はtwitter以外に、自分のブログをいくつか書いている。
また、ブログではないが、自分のウェブサイトにいろいろと書き連ねたものもある。
その文字数を数えてみたら、150万字もあった。
原稿用紙で3750枚である。

こちらを記述した期間は、10年近い。
これも思いついたことをメモする感覚で書いているが、twitterよりはややかしこまって、考えて書いている。ただし、これも推敲は一切していない。

私のこの文字を書く行動は、特に何かの訓練とか、必要とかに迫られてやっているわけではない。アクセス数を増やそうと工夫もしていない。広告などは一切のせていない。
(そういえばこのブログに広告をのせた。これについては後で書く。)

日記とか、ライフログとかいわれるような役割もないことはないが、
目的は「記録」ではない。

私は考えながら書くというか、書くことによって考える。
書き終えてから、「俺はこんなことを考えていたのか」と驚くことすらある。

私は小説を書いてみたいと思ったことが何度かある。実際に原稿用紙に書いてみたこともあるが、10枚も書けなかったような記憶がある。
ところが、口からでまかせみたいな感じで書けば原稿用紙何千枚分もの文字が書けるのだ。


2012/09/12

調号から主音を判定する


メモがてら。

調号から何調なのかを知る方法。


ハ長調において、各音の間隔は以下のようになっている。

C(全)D(全)E(半)F(全)G(全)A(全)B(半)C


調が変わってもこの間隔は同じである。
その調名の音(主音)の前の音との間隔は半音である。
ただし、半音の間隔はもうひとつある。ハ長調の場合はEとFの間隔がそうである。
主音を判定するには、全音間隔が3回続いたあとの半音間隔の後の音を探せばよい。

バカ正直に判定するなら、実際に#をつけてみて「C,D,E,F#,G,A,B,C,D,E,F#,G...で、全全全半となっているところの後は・・・Gか。」となる。


が、調号を見ただけで判定できる方法を知った。


まず、#の付いた音は主音でない、ということがわかる。

#がつくという事は、半音あがるということである。
半音あがるということは、ついた音とその前の音との間隔は必ず全音になる。
もともと全音だった場合は、その前の音にも#がつく。そうしないと間隔が全+半になってしまうからだ。


調号の#を書く順番は「ファドソレラミシ」と決まっているそうである。
なぜ「ドレミファソラシ」の順番と違うのかは不明。後で調べる。
そして、一番最後(右)に#がついている音の全音上の音が、調音なのである!

これは楽典に決まりごととして書いてあることなので
ちょっと楽器を習った人などには常識かもしれないが私にとっては大発見だった。


Fのところに一個だけついている場合は、Gとなる。
FとCについている場合は、Dとなる。
FCGDAEと、6個付いている場合は、F#。


これでもう調号なんか怖くない。

「ファドソレラミシ」の順番で#を付けるというのは、この判定ができるようにとの理由かもしれない。



ちなみに私はギターを少々弾く。教則本も途中までやって、訥々とであるが楽譜を見ながら弾いたこともあるので、ごく基本的な譜面の読み方はわかる。

だが、私がギターを弾くのはポップスや歌謡曲のコードをジャンジャカジャンとやるのが主なので、楽譜の調号を見るような機会は少ない。
カポタストという便利なものもあって、それをつけるだけでハ長調と同じ弾き方をして移調ができる。


だが最近iPadでgaragebandをいじるようになり、キーボードを弾くようになった。
iPadの画面の中の狭いキーボードであるが、感度や精度がすばらしいので楽器として十分成立する。

ギターの場合はフレットが半音間隔でならんでいるので、移調するには平行移動すればよいが、キーボードの場合はご存知のように白黒白黒白白黒白黒白黒白(白)となっているから、運指はただ平行移動するだけではすまない。ここが戸惑うところである。

でも、ギターで覚えたコードの概念というものは、キーボードを弾くときにも役に立つ。
そして、キーボードでコードを弾いていると、コードの意味があらためてわかってきて新鮮である。

2012/09/01

読書の目的

プレジデントという雑誌がありますね。

読んでませんよ、もちろん。

でも、電車の吊広告とか、売店で表紙を見たときにちょっと読んでみようかなと買ってみることがあります。

ちょっと高いですけどね。雑誌にしては。600円くらいでしたっけ?


読みたくなるのが、「稼ぐ人が読む本」みたいな特集です。

なんどもやるので、多分これをやると売れるんでしょうね。


でも、読んでみると参考にならないんですよね。

おもしろくない。

なんか、「読書」というものに求めるものが、私と全然違うんです。


その中で、ある人が対談だかインタビューをしている記事があって、その中にイヤな言葉を見つけた。

これは直接読んだのではなく、読んだ人がブログかなんかで紹介していたのを読んだのである。

それは、「社会的に成功しない人はファンタジーに逃げる」というような発言である。


私は以前から、自分の読む本に「ビジネス書」というものが皆無であることが気になっていた。

先日、感動した本を列挙したが、古典ばかりである。


お金儲けに役立つような本は一冊もない。


この、私がイヤな気持ちになった言葉を発言した人のことは、私は前から嫌いだった。

まあまあの有名人であるが、特に何をなしたというわけでもなく、有名な会社の社長だったくらいで、今も何をやっているのかよくわからない。

なんで嫌いになったかというと、やはり読書に関する発言で、「本を読むと金持ちになれる」というような発言をしていたのを聞いたからだ。

正確な内容は覚えていない。なんせ、嫌いな人の言った、不快にさせられた発言だからね。


それでさっきもまた、「読書=成功のため」というような発言を聞いたので、ついにここに書き付ける気になったのである。



「社会的に成功しないとファンタジーに逃げる」というのが、まるで私の事を言っているようでムカっとくると同時にドキっとしたのだ。


ちょっとモノを食べて、新聞を読んでアップルとサムソンの訴訟についての記事などを読みながら考えていたのだが、やっぱり、「読書とは芸術鑑賞である」ということに落ち着いた。


「読書が好き」「本が好き」「読書しろ」「本を読め」と言う人は多い。
しかし、文字が印刷されたものを束ねたものなら何でも読む、という人は読書家なのでも本が好きなのではなく、正確には「活字中毒」である。


私も新聞を読む。雑誌を読む。電化製品などの取り扱い説明書を読む。駅の構内の案内文などを読む。仕事でメールとかさまざまな文書を読む。全部活字である。紙に印刷された文字である。でもそれを読書とはいわない。「文字で書かれている情報の収集」でしかない。


私に言わせれば、いわゆる「ビジネス書」とか「自己啓発本」というものは、「文字で書かれた情報」でしかなく、文学とは全く別のものである。もうそれは、食べるものと着る物くらいに違うものである。私にとっては。どちらも必要なものではあるが。


子供の頃先生や親に言われた「本を読みなさい」という言葉は、「情報収集しなさい」という意味ではなかったはずだ。中にはそういう意味で言っていたオトナもいたかもしれないが、その人こそ、「本を読まなかった人」であろう。




高校生のとき、友人が「本を読めって言われたからこれを読んでるんだ」と言って私に見せたのは「気配りのすすめ」であった。
もう昔の話なので一応説明するが、これはNHKのアナウンサーが書いた本で当時ベストセラーになった本だ。もちろん小説ではない。私はさわりだけさらっと読んだような記憶がある。
私はそれを見て、心の中で『青木君、そうじゃないよ!』と叫んだ。



仕事をしていると、人の話を聞き、理解し、人に話をし、理解してもらい、文章を読み、書く機会がある。そういうときに、たまに「あなたは話すのが下手だ。もっと論理的に話せ。新聞を読め。本を読め。」という人がいる。けっこういる。

半分冗談で、「日本語を勉強しろ」などとも言う。


「読書」をすすめるのも、「読解力や論理的な思考を培うため」と考えている人が多い。そしてそれは「情報収集」のためであり、それは「金儲け」という目的のためである。


有名な小説とか映画を読んだり見たりしたときに「わからない」という人がいる。「わかった?」などと周囲の人に聞いたりする。

だが、芸術というものはわかるとかわからないとかいうものではない。「共感する」「感動する」「良さがわかる」という意味で「わかる」というならいいが、そうではなく、「なぜ彼はあの時自殺したのか」「なぜ彼女は何もいわなかったのか」などと、登場人物の行動の合目的性などを考えたりする。

そういう人は、言葉を理解したり映像を認識したり音を聞いてそれが銃声だとかガラスが割れる音であるとかを理解できないのではない。芸術を鑑賞するという行為に慣れていないのだ。

「読書する」というのは、「芸術鑑賞の訓練」のことを言う。

昔は芸術に触れる媒体が少なかったから「読書」と言っていたのに過ぎない。絵画や映画や演劇や音楽でもいいのである。


ただし、文学というのは言葉という、非常に身近な、誰でも自由に扱えるものを媒体としているから、それによる芸術というのは起源も古く、作家も鑑賞者も訓練を経ているので洗練されたものが多く、芸術として推奨されるのだろう。


芸術鑑賞としての読書にも、当然言葉を理解し論理的に考えることは必要である。が、それは本当にごく基本的な手段でしかない。


ある場所に行くときに電車に乗る技術のようなものでしかない。
電車の乗り方は子供はわからないが、1、2度オトナと一緒に乗ればわかる。
外国へ行くと多少事情が違うかもしれないがその辺の人に聞くなどすればわかる。

「読書をすると論理的思考力が培われる」というのは、「上野の美術館へ行くと常磐線の乗り方がうまくなる。切符が早く買える。回数券を使うと割安だ。」と言っているようなものだ。



話は「プレジデント」に戻る。
買って読んでみると、薦められている本に「芸術」はほとんどない。
「小説」自体が少ない。


司馬遼太郎の本を薦める人は多い。「坂の上の雲」とか。
私は司馬氏の本を一冊も読んだことがない。「竜馬がゆく」などを読んでみたことがあるが、
最後まで読めなかった。


私は「歴史小説」と言われるものが嫌いだ。「ノンフィクション」もあまり好きではない。

それは、結局言葉というものは、「語る」「書く」ということは主観である、と思うからだ。
歴史小説やノンフィクションを読んでいると、いかにも公正中立で客観的にしているようなフリをした語り手に対して、「お前は誰だよ?」といいたくなってしまうのである。


小説でも、そういう客観的な「語り手」が存在するものもある。
というか、多くがそうである。そういうものは私もちょっと苦手である。

小説でも、手記の形式をとったり、人が回想する形式をとるものがある。日記形式もある。
私は最近はそういう形式のことをちょっと気にするようになった。若い頃は、そんな形式はどうでもよくて、主人公が何をするか何を考えているのか何を言いたいのか何がしたかったのかなどを気にしていたが、最近は作者の意図とか狙いを気にする。

だが、それはあまりよくないことだ。
読書をするというのは、本をよく読むというのはそういうことだと思っている人が結構いる。
文学を研究する人はそういうことも必要かもしれないが、それでも、本来の、最後の目的ではない。
よく言われる「時代背景」などというものも、私は考慮する必要などないと思っている。

「この作品を本当に理解するには当時の時代背景を知る必要がある」
などと言われるが、私はそれは嘘だと思う。そういう人はその作品を読んでいるのではなく、その作品が歴史上どういう意味を持つのか、持ったと認識されているのか、ということを社会科学者のような立場で「調べている」だけなのだ。

なんどもいうが、読書は調査でも情報収集でもない。
芸術鑑賞なのである。


2012/07/11

アナログレコードとデジタルCD


結論を言おう。アナログレコードの方が優れている。

私は今日、レコードとCDの違いについてWEBで検索してみたところ、「CDの方が音質がよい」という意見が多数を占めていた。私には意外な結果であった。「CDは特定の周波数をカットしているので音に深みがない」というような事を複数の人から聞いていて、ほとんど定説となっていると思っていたからだ。それを語っていたのはミュージシャンや音楽愛好家の人達で、一人については直接話を聞いて、CDとレコードなんか比較にならない、聴けばすぐわかる、ということであった。私は毎日暇さえあれば音楽を聴いているが、音源はCDもしくはMP3である。MP3についてはCDよりさらに音質は低いと聞く。

CDとレコードの「音質」について語られることは主に二つあって、「情報量の多さ」と「雑音のなさ」である。レコードは磨り減って劣化するというのはまた別のハナシなのでそれは除外する。どちらが情報量が多いのか、ということについてはわたしはずっとレコードだと思っていたのだがそう簡単に言い切れないようである。いろんな話をきいていると、どうやら情報量の多さではCDの方が優れているという印象を持った。しかし、私はミュージシャンや音楽愛好家が「レコードの方がいい」と語る口調の強さの方がどうしても信用できる。「温かみがある」「深みがある」などというあいまいな表現をされていて、CD派の人々は思い込みにすぎないと批判するところである。少し理屈をつけると「CDは人間の可聴範囲を超える音をカットしているがそれが味わいや深みを消す」などということになるようだが、これも真実かどうか怪しい。実際CDとレコードの音を聴かせて区別できない人も多いそうである。

しかし、私は1時間程の通勤時間内でレコードの方が優れているという結論の根拠を見出した。これは、以前別の話で述べた「形式と内容」に関わることである。周波数とかサンプリングとかいうのは形式の話である。おそらく形式ですぐれるのはCDなのであろう。しかし、この形式上の優位が、音楽を録音・再生するということにはマイナスに作用するのである。形式上優位であり、生音の成分を忠実に保存・再生できるということは、演奏者にとって楽であるが、形式上不利な録音システムを利用する場合、録音によって失われることを考慮して、演奏者や録音技師達が工夫する。たとえばボーカルと演奏の音量の比率とか、ボーカルの声の出し方そのものとか、マイクの位置とか、演奏する場所が室内なのか屋外なのか演奏に適した音響設備の整ったホールなのか・・・そのように録音のために工夫し調整することがたくさんあるのがレコードすなわちアナログ録音である。一方CDすなわちデジタル録音はそのような工夫の必要はなく、スタジオで気軽に録音できる。多少ノイズが入っても機械的に処理して消すことができる。これである。私はデジタルとアナログの一番決定的な違いは、音の加工が可能であることではないかと思う。それは、「微妙な音が消える」「自然な音でなくなる」ということもあるが、それにもまして「演奏者の工夫と緊張を奪う」ということが重要ではないかと思うのだ。

その貴重な証人の一人がレス・ポール氏である。これはデジタルとアナログの違いではないのだが、演奏家でありエンジニアでもあったレス・ポール氏は多重録音装置を発明した。それ以前の録音で多重録音をするには、たとえば最初にバッキングを録音したら、そのテープを再生しながらボーカルが歌ったものを録音していた。だから、ボーカルが失敗したり、飛行機が飛んできたりしたらバッキングからやり直していたのである。レスポール氏は複数の録音を「トラック」に分けて、ボーカルが失敗したらボーカルだけ取り直せばすむようにした。ところが、この画期的なシステムを発明してからヒット曲が出なくなったそうなのである。私はこれも、便利な多重録音システムが演奏者の緊張を奪った結果だと思う。アナログレコードの録音から感じる「味わい」「深み」とかいうものは聴き手の思い込みなどよりも、録音技術が演奏家に与えた影響による気合の変化の結果なのである。これは録音装置の技術とは無関係のようであるが、これほど確実に与える影響もない。こう考えると、すべてに説明がつく。CDが含む周波数帯域の方が広いのにレコードの方がよく聴こえる理由、CDとレコードの音を聴き比べても区別できない理由。昔レコードで発売された古いアルバムがCD化されてそれを聴き比べたらおそらく区別は難しいだろう。演奏家に与える影響が変わらないからである。

私自身も、音楽を作ったことがある。最初に使用したのはカセットテープを使用する4トラックのアナログMTRである。音量は針が動くメーターで表示され、ボリュームやパンの調整は丸いツマミを回すことでおこなう。このときに作ったものは傑作が多い。ところが、その後MTRも高機能小型化がすすみ、カセットテープは使用せずにSDカードなどに録音するようになった。表示や操作は針やつまみではなく数値とボタンでおこなう。またギターのエフェクタやドラムマシンなどが内臓され、録音可能なトラック数も32だとか、飛躍的に増加した。私はいい時代になったものだと感心して新しいMTRを買ってみたのだが、どうもいいモノができない。カセットMTRの場合、録音した後再生するには当然巻き戻しが必要である。演奏が終わって録音を止めてテープを巻き戻す時間。これはメンドクサイことではあるが、「今の演奏はよかったんじゃないかな・・・あそこが失敗だったかな・・・」などと反省する時間でもあったしワクワクする時間でもあった。だがデジタル録音の場合は巻き戻しなどせずに録音が終わったらすぐ再生できるし、消すのも一瞬である。カットアンドペーストのような操作も簡単にできる。だが、そのような便利さは作品の本質には関係ないどころか悪影響を与えるのである。

以上述べてきたことは、アナログレコードとCDの過渡期の人間ならではの事である。最初からデジタル録音しかしたことのない演奏家には影響のないことだ。むしろ、録音のために余計な苦労をしなくてすむことで、演奏に専念ができるようになる。私は新しい技術を否定するのではない。不毛な努力はことごとく廃することに大賛成である。しかし、技術はあくまでも技術、形式であって、それにおぼれると本質が失われるのである。技術は簡単に進歩するが本質の進歩に近道はない。だから優れた芸術家は新しい技術を軽蔑するのであり、それが正しいのである。