2012/10/22

小説が読めない

朝9時半ごろから20時ごろまで、昼と夕方の食事の時間以外はほぼずっと読んでいたが、
186ページしか読めなかった。

辞書を引いたりメモをしたり引用したりしたので普段より時間はかかっているが、
10時間くらいかけて186ページは遅いな・・・。

1時間に18ページ、1ページに3分以上かけていることになる。

最近本が読めないなと感じていて、今日は時間はかかったが久しぶりにある程度の量が読めたと喜んでいたのだが、最後の方はいつものように頭に入ってこなくなった。

単純に、アタマの持久力みたいなものが落ちたのだろうか。

簡単に言えば、「飽きた」という状態だ。

なんで飽きるのか。

何を言っているのかわからないなら、読めない。
知らない外国語の本が読めないように。

だが、読めるのに、読んでいるのに頭に入らないことがある。

外国語の翻訳というのもあるかもしれない。
しかも40年以上前に書かれたものだ。

「ざんねん」とか、時々変な言葉をひらがなで書いていたりしてイライラする。

意味がわからなくて、「誤訳じゃないか?」
と思うところもある。


人が書いたものであるから、書き手が不親切であったり、書き手がつたないということもあり得る。
翻訳であればその危険性は倍になる。

ただ、今読んでいるのはノーベル文学賞をとった作家の、20刷以上も発行され続けている本である。


「難しくて読めない」のだろうか。
語彙が足りないから理解できないのだろうか。


私が本を読む態度は、古い映画を見るような感じである。
フィルムについた汚れとか傷とか、音もこもっていたりして聞き取りづらいような映画を見るときは、
その汚れを気にしてはいられないし、一言聞き取れなかったとしても話の流れなどからだいたいこういう意味だろうと自分の頭の中で補完しつつ見る。

それは、誰でも多かれ少なかれしていることだろう。
何もかも作者の意図をすっかり理解できることのほうがまれだろう。


だが最近はその、「よくわからないことは飛ばす」という態度が行き過ぎてしまい、わかるわからないの前に最初からところどころ読み飛ばしてしまうことがある。

あと、読む前からその作品や作者についての先入観があって、最初から批判的になってしまうとか。

マルクスを読むときなどは、もうガチガチにガードを固めてしまう。


トーマス・マンの作品は、「トニオ・クレエゲル」と「ベニスに死す」を読んだ。
ベニスはおもしろかったのだが、トニオはつまらなかった。
反感さえ覚えた。

魔の山を初めて読んだときも、ハンスに反感をおぼえた。

ではなぜトーマス・マンを読もうとしているのか。
それは三島由紀夫と平野啓一郎が名前を出したからである。

あと、読んでみて、トーマス・マンとはこういう作家である、こういう作品を書く人である、
ということが自分なりにつかめないからである。


そもそも私は文学というもののよさがあまりよくわからない。

いいなと感じた小説はないこともないが、本当に「わかって」いるのかは怪しい。

単に文体が気に入ったとかだけなのかもしれない。

もしかして文学なんて文体だけなのかもしれない。
主人公が善行をするのがよい小説であるわけではない、というのは間違いない。

私は、芸術というのは意味がないほどよいものだ、という考えを年々強くしている。
ただ、一部の前衛芸術のようにまるっきり意味がないもの、というか、
あえて無意味にしているようなもの、それも芸術ではない。

まったく支離滅裂だと、もちろんダメだ。
かといって、特定の思想を広める目的があったり、
人情や感情に訴えるものであってもダメなのだ。


たとえば自分の命をかえりみず人を助けるとか。
これは感動的なことでありもちろんそのこと自体を否定するのではないが、
芸術ではない。

つまり、「塩狩峠」は芸術ではないのである。

バッハの「マタイ受難曲」を全面的にすばらしいと言えないのも、イエスの磔を題材にしているからである。

聖書を芸術だと思って読んでいる人は、いるかもしれないが、けしからん読み方である。
もちろん私は芸術だと思って読んでいるわけではない。


そもそも、芸術は怪しからんものになりがちである。
怪しからん事をするのが芸術だ、みたいな考えの人もよく見る。

それは芸術が善行の奨励ではないということを示すための皮肉としてほのめかす程度ならいいのだが、反道徳を主義としているような人も違うと思う。


私はそんなことを考えながら読んでいる。
悩みながら、芸術そのもの、文学そのものを否定したくなることすらある。
「こんなもの読む価値はないのではないか」
という気持ちに頻繁におそわれる。