2012/10/23

魔の山 (4)

四章まで読み終わった。

ハンスが病気であることが発覚するところまでである。

岩波文庫は上下の2冊に分かれているのだが、なかなか読めないので、
私は上下巻をそれぞれ半分ずつに分けた。カッターで切った。
上巻の半分は四章までである。

残り半分が五章だ。五章だけ他の章に比べて長い。



後で編集付記というものがあるのに気づいたのだが、
それによると岩波文庫はもともと4分冊だったのを、1988年に2分冊にしたそうだ。


というわけで、全体の約四分の一を読んだことになる。
内容的にも、「起承転結」の起の部分というところだろうか。


なかなかおもしろい。
おもしろいというのは、ファニーという意味である。
何度か笑った。セテムブリーニとか、ベーレンスの皮肉っぽい言い回しなどで。

主人公のハンスと従兄のヨーアヒムは、「かわいい」と言っていいくらいの無邪気な青年である。
翻訳の文体のせいもあるかもしれないが。

しかし、彼らを取り巻く人々の描写は冷酷というか、差別的とも言える。
まるで珍獣の展覧会のようである。


そのなかにマダム・ショーシャという女性がいて、ハンスが彼女に興味を持っていることが描かれる。ただそれは若い男子が女性を恋するというような単純なものではない。

まず、彼が少年の頃に興味をもった男子についてのエピソードが語られる。
そして、マダム・ショーシャはその男子に似ているのである。

「ベニスに死す」を読んでいるし、トーマス・マンがどういう人だったかというのも多少知っているから、この辺のくだりを読んだときには、ハハーン、そういうことか、と思ってしまう。

ただし、別に同性愛とかなんとかではなく、少年の頃に同性の友人を尊敬とか親しみ以上のあこがれのようなまなざしで見ることは私にも経験があり、それを同性愛だと言うのはちょっと違うと思う。


それから、この作品は「教養小説」というジャンルに分類されるらしい。
教養小説というのは、主人公の内面的な成長を描くというようなものらしい。

四章まででは、クロコフスキーの講演とセテムブリーニの文学、音楽、政治などについての話をハンスが聴くところが教養小説といわれるところなのだろう。

だが、私は少なくとも「魔の山」は、「ハンスの内面的成長を描く」などというものではないと思う。
私が本作をなんとしても読みきろうと思っているのは、「これは教養小説などではない」と言いたいが為であると言ってもよい。


小説の主人公というのは、平凡で無性格なのが好ましい。
また、何か強烈な目的意識や主義主張を持っていないほうがよい。

夏目漱石の小説の主人公も仕事もせず遺産で暮らしているような男ばかりである。

そのことを批判する意見も見るが、それは間違っている。


そもそも、しっかりとした目的意識があり、実務に専念できるような人間に文学など必要ないのである。
「いい大人になってもすることがない人間が作家になる」というようなことを、誰かは忘れたが有名な作家が言ったという。


セテムブリーニとかクロコフスキーのような登場人物が作中で演説のようなことをする。
ドストエフスキーの作品でも、作中で一個の論文を読み上げるようなセリフが出てくる。

こういうものは作者の主張そのものではない。

もし作者が主張したいことがあるなら、わざわざ作中人物に語らせずに、本人の名で直接語ればいいのである。
その前に、小説を書くことすら必要ない。


基本的に小説の題材になることは、批判の対象である。
もしそれが作者の理想であったり、目指すものであったりするなら、
それは小説という架空の世界でなく、実際に自分が行動して実現すべきなのである。


ただ、小説とは、文学とは、批判が目的なのでもない。
「人間はかくあるべし」という模範を示すものでもない。
だから、「教養小説」などというものは、私は認めない。

「魔の山」はおもしろい。
ファニーと言ったが、その要素もあるが、インタレスティングでもある。

芸術には、オチなどというものはない。
あったとしても、それはごく表面的な形式上のものにすぎない。


夏目漱石の「こころ」は、「過去の三角関係を苦にして自殺した男の話」だというのは、
ある意味正しいがほとんど無意味なことだ。
「人間も動物である」というようなものだ。

「魔の山」も、「ハンスの成長を描いた物語」などというものではない。