2021/02/23

西城秀樹 「あなたと愛のために」

 ふと、西城秀樹の「ブーメランストリート」が聴きたくなった。

聴きたくなったというか、頭の中に流れ出した。


少し前に、西城秀樹の70年代シングル盤集みたいなものを買ってあったので聴き始めた。

西城秀樹は子供の頃カッコいいなと思っていた歌手だが、ブーメランストリートが発表されたころにリアルタイムで聴いていたかは微妙だ。

聴きながら、どの辺から聴いているかなと探していき、ブルースカイブルーは確実に覚えている、炎も覚えている、その少し前のブーツを脱いで朝食をは、どうだったかな、と、

その間に挟まれて「あなたと愛のために」というタイトルがある(wikipediaを見ていた)。


あれ、どんな曲だっけ、と聴いてみると、イントロでポポポポーンというかピュピュピュピューンみたいな電子ドラム音が流れて、あ、これ俺が好きだった奴だ!と思い出した。


聴いていると、おぼえてはいなかったのだが、自分が一言一句聞き漏らさずにメロディーも全部かじりつくように聴いた曲であったのがわかった。

作曲は大野克夫。


小学校低学年の頃は西城秀樹が好きだったが、3年生くらいから沢田研二の方が好きになっていった。

大野克夫は沢田研二のヒット曲をたくさん書いている。


西城秀樹は沢田研二よりも清潔で好青年なイメージがあって、沢田研二の方が人生の悲哀や男女間の機微みたいなものを表現するのに似合っていた。

だから沢田研二の方が売れていて、西城秀樹はいい歌手ではあったが、人気絶頂で天下を取ったみたいにまではならなかった。


まあ、だからどうだということもなく、それはそれで、沢田研二も西城秀樹も素晴らしい歌手であるのは間違いない。


ちなみに尾崎豊は絶対に西城秀樹に影響を受けていてマネをしているといってもいいと思うのだがそういう話はきいたことがない。



2021/01/11

2020年にレコードプレイヤーを買った

 私が初めてレコードプレイヤーを買ったのは高校生の時、198x年だ。

そして初めて買ったレコードはサザンオールスターズの「ヌードマン」である。

週に1回くらい、近所の歌詞レコード屋へ行って、1回に3枚くらい借りて、カセットテープにダビングし、歌詞カードをコピーしていた。


それからレコードがCDに置き換わったのは2、3年くらいのうちだったと思う。

CDで聴くのが当たり前になった頃に、たしか1995年ごろ、職場の人と雑談していたときに、アナログレコードとCDの音の違いについて話したときに、まあまあ音楽に詳しく演奏家でもある人が、比較にならない(くらいレコードの方がよい)と言っていた。


私の聴く音楽はいわゆるポップスやロックなどなので、そんなに音質にこだわらないからいいか、と、そういう話も聞き流していた。


それから音楽を聴く媒体はCDからMP3に変わっていった。MP3になると、ビットレートにもよるがさすがに音質の劣化を感じ始めた。


「音が悪い」というと、私にとっては「クリアでない」「雑音が多い」「曇ったような、こもったような感じ」「小さい」という感じが多いのだが、MP3の音質の悪さというのはそういうことではなく、キメが粗いというか、画像にたとえると解像度が低いというか、ザルですくったような感じというか、自然現象では経験しない、なんとも気持ち悪い感じだ。


そういう気持ち悪さは、「CDやMP3はデジタル化しているので微妙な周波数がカットされている」というような話を聞いたからそういう風に思い込んでいるというのもあるかもしれない。


iPhoneを使うようになって、音楽はイヤホンをして外で聴くものになった。家にいるときに音楽を聴くことがほとんどなくなった。


そして聴く音楽は若いころ聴いた古いものばかりで、クラシックやジャズなどは聴かなくなっていった。

1枚のアルバムをじっくり聴くことが減り、ほとんどなくなり、何かするときにBGMとしてシャッフルで流しておくことが増えた。


自分の好きなアルバム、アーティストの最高傑作は何か、などを考えていた時に気づいたのが、そういうときに選ばれたものはほとんど、アナログレコードで聴いたものだということだった。



さて、レコードプレイヤーを買って聴いてみた感じはどうだったか。

スピーカーがパソコンで使うような小さなものだったりするのだが、


最初に感じたのは、「鉛筆で書いた絵のようだ」という感じだった。


針を落としたときに「プチ」っといったり、細かいノイズは聞こえる。


レコードに触ったり傷つけたりしないように気を使うしひっくり返すのも面倒くさい。


でも、音楽を聴くというのは、それくらいの手間をかけて当然ではないだろうか。


そもそも、レコードさえ、演奏の録音であって、録音など音楽ではないというミュージシャンの意見も聞く。


レコードで聴いていると、いつもiPhoneでイヤホンをして聴いている音楽が退屈で物足りなくなってくる。


人間の声より、バイオリンとかサックスとかピアノの音が聴きたくなる。



2020/12/31

シーモア ―序章―

 「あれか、これか」を読んでいるときに、インターネットでいろいろ調べ物をしていたら、サリンジャーの「シーモアー序章ー」に、キェルケゴールの名前が出てくるということを知った。

ページをめくった最初のところに2つの引用があって、一つは死に至る病である。

「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」とセットで発表されたようであるが、「大工」の方は高校生の頃読んだ。

「ライ麦」を読んで感動して、お茶の水の古本屋で全集だか選集だかを買った。

シーモアをはじめとして兄弟姉妹の話が複数あり、非常にリアリティがあるのだが、実話なのか創作なのかわからない。

創作っぽいのだが、今回「シーモア」を読んで、やっぱりこれは実話じゃないと書けないのではと感じた。


読了 「あれか、これか」6 

4冊の最後の一冊、 第二部(下)をようやく読み終えた。


「人格形成における美学的なものと倫理的なものの均衡」

「ウルティマトゥム」

「われわれは神に対していつも正しくないという思想のうちにある、教化的なもの」


「人格形成における....」は、本作の前半で述べられたことに対する反論というか、お説教というか、たしなめというか、先生が生徒に語り掛けるような手紙の形式である。

「あれか、これか」の前半を読むのは苦痛であったが、後半に入って自分の知っているキェルケゴールにようやく会えたような気がした。

聞いた話だが本作は後半が先に書かれ、後から前半が書かれたという。

つまり、私が感じたように、前半のモーツァルトがどうこうとか誘惑者がどうこうというのは、壮大な「フリ」であって、キェルケゴールの言いたいことは後半にあったのだ。

読んでいて、ほとんど「死に至る病」と同じようなことを言っていると感じた。


いちおう、「あれか、これか」をついに読了した。

高校の授業でその奇妙なタイトルを聞いて読んでみようかなと思ってから30数年が経ってしまった。


さて、このタイトルの意味であるが、デンマーク語は Enten-Eller、英語では Either/Or と書かれる。

日本語のタイトルだと、「AかBか」、「美学的なものと倫理的なもののどちらを取るか」みたいなことかと思うし、解説のようなものを読むとそのように説明されていることが多いように思うが、そうではなかった。


デンマーク語はわからないので(読んでいる途中にデンマーク語入門のような本も買ったが)、英語の Either/Orを説明的に日本語にすると、「両方選ぶか、どちらか一方を選ぶか」となる。


こうしても、「倫理的なものと美学的なものを両方選ぶことはできない(だから美学的なものを捨てて倫理的に生きねばならない)」というように解釈することもできるが、そんな断定的な内容ではない。


おそらくこれは、キェルケゴール流の壮大な弁証法なのだろう。弁証法というものは私にはいまだにどういうことかピンとこないのだが、AとBという相反するものについて議論してどちらがいいとか悪いとするのではなく新しい次元の概念に発展させる、というようなことだと理解している。


弁証法という考えは広義にはプラトンが書いた、ソクラテスが弟子と対話して議論をすすめていく方法のことも指すらしい。


正・反・合、なんて、「ケンカした後でお互いのことがよくわかりあえて前より仲良くなった」みたいな、安っぽいきれいごとのようにしか思えなかった。


キェルケゴールの弁証法は、そんなきれいごとではなく、もっと苦しい、体が引き裂かれるような、あるいは体と心が引き裂かれるような、つらくて永遠に結論が出ないようなものである。


そして彼が他の哲学者と決定的に違うのは、神(キリスト)という絶対的なものが存在していることである。


彼は、考えて、哲学して、弁証法によって神にたどり着くのではない。神は大前提であり、哲学と信仰とは完全に切り離されている。信仰のための哲学でもないし哲学のための信仰でもない。


この作品は彼が婚約までしたのに結局結婚しなかった、という事件があったころに書かれたものである。

結婚が大きなテーマであることは間違いない。

「人格形成における....」は、結婚している者が結婚していない者(キェルケゴール)にあてて書いた結婚を肯定する手紙であるが、それを書いているのは結婚していないキェルケゴールである。

こんなものを書いておいて、彼は結婚しなかった。「結婚は哲学あるいは信仰に邪魔だ」という考えだったわけではないだろう。

私には、彼は自分は結婚する資格がない、結婚するにはまだ未熟だ、自分が結婚しても妻を幸せにしてあげられない、みたいな考えだったように感じる。

キェルケゴールについての評伝みたいなものには、明らかにされてはいないが何かとてつもない大きな事件があったかのように書かれているのだが、私はそれは確かに大事件かもしれないが、具体的な行為であるとか特定の人間との関係とか(親子とか愛人とか)いうものではなくて、ごく内面的な事だったのではないかと思う。


2020/12/30

M-1 グランプリ 2020

 今年は予選から観た。

全部観たわけではないが、twitterやyoutubeなどで噂になっているコンビ(じゃないのもいるが)はだいたいチェックしていた。

採点

決勝1本目

インディアンス 87

東京ホテイソン 91

ニューヨーク 92

見取り図 93

おいでやすこが 94

マヂカルラブリー 90

オズワルド 89

アキナ    88

錦鯉 92

ウエストランド 86


決勝2本目(順位)

1.マヂカルラブリー
2.おいでやすこが
3.見取り図

敗者復活戦(3組選択)

1.金属バット
2.コウテイ
3.滝音


その他、途中で敗退したがおもしろいと思ったコンビ

タモンズ
コロコロチキチキペッパーズ
ななまがり
ストレッチーズ
さや香
キュウ
あかね
トムブラウン
祇園
デニス
令和喜多みな実
令和ロマン
シンクロニシティ
あかね(黒木・山崎)


感想


金属バットに決勝に出てほしかったのだが、
予選からずっと観て、過去の漫才もyoutubeで観て、
おもしろいのだがM-1向きじゃないかな、という気がだんだんしてきて、
敗者復活選のトップバッターの漫才を観たときに、ダメだな、と思った。
(投票したが)

マヂカルラブリーは3年前に観たときは二度と出すなと思うくらい嫌いだったが、
今回は予選からおもしろくてすっかり見直した。
私の採点だと彼らは2本目に残れなかったことになるが、
残った3組だったらマジカルラブリーを選ぶ。

まだ予選を観る前は、前回の印象やyoutubeを観た感じからして見取り図が優勝するのでは、と思ったこともあった。彼らのことは好きなのだが、M-1で優勝するにはちょっと軽すぎるというか、インパクトが足りない気がする。

コウテイというコンビについて、名前をよく聞くし賞を取ったということだったが何回見ても好きになれなかった。しかし準決勝・敗者復活戦を観る頃になってようやく彼らのおもしろさがわかってきた。そして彼らはM-1向きである。




2020/11/29

スパルタカス

スタンリー・キューブリック監督

1960年


この映画は高校生の時に夜中にテレビで放送されたのを観た。

たしか前半後半2回に分けられていたような記憶がある。


とても感動して、日記帳のようなものに感動したと書き付けた。

それからレンタルビデオなどで映画はちょくちょく観てきたが、

好きな映画はときかれたらスパルタカスと答えよう、と思うくらいだった。


キューブリックの映画で初めて見たのは2001年宇宙の旅で、

これも高校生の時だが、これはテレビではなく、映画館でリバイバル上映されたのを

友達と観に行ったのである。


スパルタカスと2001年を観たのはほぼ同じ頃だということになる。

2001年はよくわからなかった。


その後時計仕掛けのオレンジ、フルメタルジャケット、シャイニングなど、キューブリック作品を観るたびにすごい監督だなあと感心した。


スパルタカスについては若いころ観て感動した映画だというのはずっと残っているのだが、さてどんな内容だったかと思い出してみると全くと言っていいほど記憶がない。

最後にスパルタカスが十字架についているシーンだけは覚えていたが、

それ以外は何も覚えていない。


今回DVDを買って観たのだが、印象に残ったシーン、セリフ、登場人物などああ、こんなのあったな、というものすら全くと言っていいほどなかった。


さて、内容について。


スパルタカスの反乱がローマ軍に鎮圧され、「スパルタカスという奴隷を処刑すればほかの奴隷は許してやる」みたいなことが言われると、奴隷たちが次々に「私がスパルタカスだ」と名乗るシーンがある。


これは最近テロ事件があった時に「私がシャルリー」だとかいうハッシュタグがつけられるなどと同じようである。


さらに、これは以前にも思ったことであるが、十字架につくスパルタカスはキリストを連想させる。


スパルタカスとキリストは何が違うのか。


今回思ったのだが、


キリストは「私は神だ」と言って十字架についたというのは、もしかして、

スパルタカス以外の奴隷が「私がスパルタカスだ」と名乗り出たのと同じようなことだったのではないか?

2020/09/09

結婚の美学的妥当性 「あれか、これか」5

 キルケゴール著作集の3、

第二部(上)


ずいぶん時間がかかった。

寝る前に寝床で少しずつ読んでいたがようやく読み終わった。


「あれか、これか」は、結婚がテーマである。

3/4を読んだので、もうどういう本なのかは大体わかってきた。


結婚について書かれた本と言えば、スウェーデンボルグの「結婚愛」という本を、

読んだことがある。


キルケゴールもスウェーデンボルグもキリスト教徒の立場から結婚を語っている。


スウェーデンボルグは結婚とは男女にとってあるべき神聖な関係、

それによって初めて神が創造した目的を果たす、みたいなものとして語られていた。


「結婚の美学的妥当性」だけを見れば、ほぼ同様の立場であるが、

「あれか、これか」は自由奔放な恋愛を賛美するような部分もあれば、

婚約者をもてあそぶかのような誘惑者の立場からの部分もあり、


総合的には、「私がどうして結婚することをやめたのか」

という弁明となっている。


醒めた目で見れば、何をそんなにクヨクヨ考えているのか、

といいたくなる。


キルケゴールは結局、結婚することが怖かった。

妻を愛しぬくことができるだろうか?

結婚する資格があるか?


みたいなことを、正当化するために、複数の人格を想定して

1人で議論ごっこをした。


みたいなもの。


さあ、最後の一冊。



2020/07/26

パイドン

岩波文庫

プラトン著
岩田靖夫訳

1998年2月16日 第1刷発行
2019年8月6日 第25刷発行

「ー 魂の不死について ー」という副題がついている。

岩波文庫のプラトンの作品は若いころからちょこちょこ読んでいて、
国家、饗宴、ソクラテスの弁明、プロタゴラス、メノン、ゴルギアス、などを
読んでいるはずだ。


最近、人間は死ぬとどうなるのか、いわゆる霊魂不滅ということはどういうことなのか、といったことを考えたことがあって、霊魂不滅といえばソクラテスが語っていたのを前に読んだよな....

と思い、どれだっけなあと岩波文庫の本棚の前で探していたら「パイドン」が見つかった。副題にも書いてあるし、表紙にある概要みたいなのにもそのものずばりが書いてあった。

これだこれだ、と思い、開いてぱらぱらと見てみたが、内容についてはよく覚えていなかったので、まあ、もう一回読むか、と買って帰った。


ちょっと回りくどい前置きがあって本編が始まるのだが、その前置きを読んでいて、この霊魂不滅についての議論(というか主張)は、ソクラテスが刑死するその日になされたものであるということを知った。

自分がまさに死ぬという日に、しかも裁判でおそらく不当な判決により自ら毒を飲んで死ななければならないというその日に、霊魂が不滅であると、肉体が死んでも魂は永遠に生きる、という話をしたのを、そのまま受け取ってよいものだろうか?と思った。

霊魂がどんなもので、人は死ぬとどうなり、霊魂が不滅であることはどうやって証明できるかということについて、詳しく吟味することはしない。

私がよく覚えていなかったのも無理はなく、その話はどこかで聞かされたような、もはや陳腐とさえ言えるものだった。

私は最近自分で考えて、「霊魂が不滅」というのは、白っぽい透明なもやもやした「たましい」みたいなものが存在していて、それが体からスーッと抜け出て、天国あるいは地獄へ行くというようなことではなく、もっと比喩的な話なのではないか、と思ったのだ。

だが、ソクラテスの考えは比喩的なものなどではなく、霊魂というものは目には見えないが確実に存在しておりそれは肉体が滅んでも冥界(ハデス)で存在し続けるというものだった。
だから、死ぬことは怖くないしむしろ喜びであるとまで言うのだ。

子供のころは、なんとなくそういう話を信じていた。
信じていたというか、そんな話は吟味して本当なのかと考えることすらなかった。

やがて学校で勉強をし読書をし、知識と経験が増えていくにつれて、
人はそのようなことは忘れるか、バカバカしいと信じなくなるだろう。

だが私は、20代になるころに、なぜかそういう素朴な死生観があらためて真実だと思った時期があった。

シニカルで既成概念を否定するのがカッコいいというような周囲の姿勢にウンザリしていて、天真爛漫で無邪気な考えをするようになっていた。

だが、その後年月がすぎ、自分が知っている人が死んでいった。身近なところでは父の死を経験した。

そして、どんな人でも、その魂が死後も存在し続けているのを実感することはなかった。

自分が実感できないからというだけで存在を否定することはできないが、
どう考えても霊魂というものがどこかに存在しているなどとは思えないのだった。

だから、ソクラテスが語った霊魂とかハデスとかいうことも何かの比喩なのではないかと思ったのだ。

科学技術が未発達な時代の無知な人々の考えたことだ、などというつもりは全くない。

でも、どこまでがソクラテス自身の言葉なのかはわからない。

実は、もっと軽いノリで、これから死刑になる男が周囲の弟子たちに向かって、「心配すんなよ、俺の魂はハデスで永遠に生きるんだから、ガッハッハ!」
といって、弟子たちは「そうですよね、ソクラテス、死ぬことは悲しいことじゃないですよね」

と、漫才のようにボケと突っ込みを応酬しあって「やかましいわ」「もうええわ」と言いながらお互い涙を流していた、

なんてことだったりしないだろうか....

2020/07/23

クサンティッペ

「あれか、これか」の第二部上巻を読んでいる。

第二部は、第一部を書いたものに対する書簡という形式になっている。

第一部は読むのが苦痛だったのだが、第二部は私が求めていたキルケゴールの言葉が語られているように感じる。

ただ、やっぱりその中で自分の心や感覚に触れるところはほんの少しでしかない。


ちょっといいなと思った箇所があったので、google playで買った原文にコメントを付けようと思い、その個所を探すためにその近辺の目印になる語がないかと探すと、

クサンティッペ

という語があった。

googleで検索すると、ギリシア語だが、英語では xanthippe というつづりだとわかったので、

google playで検索したがヒットしなかった。

しかたなく、ザーッとページをめくって翻訳を表示しながらその個所を探していった。

そして、クサンティッペは "xantippe" とつづられていた。


そもそも、コメントを付けようと思ったのはクサンティッペについて語られたことではなかったのだが、「クサンティッペって何だろう?」と思い調べると、ソクラテスの妻の名前で、「悪妻」の代名詞として使われていることを知った。



2020/07/07

ランボー ラスト・ブラッド

youtubeとかtwitterで、何人かの人がいいと言っていたので観に行った。

ランボーは1と3を観た。

だいぶ前に、このブログで、ランボーはちょっと、みたいなことを書いたことがある。

そんなことは忘れて観に行った。


自分のではないが、孫のような少女がメキシコの悪党にさらわれて薬漬けにされ売春婦にされたことに対し怒って.... という話であることくらいを聞いた。


ベトナム戦争とかアフガンとかにくらべるとちょっとスケールが小さいというか、
プライベート的というか、そんなストーリーだ。


ストーリーは上に書いたものほぼそのままで、疑問を感じたりすることはほとんどなかった。

ただ、冒頭の、馬に乗って救助隊みたいなことをしているのが、ジョン・ランボーなのか、

今のというか、最近の話なのか、祖先の話なのか、などがちょっとわからなかった。


表札とか、墓碑とかに「R・Rambo」というのがちらほらでてきた。

「ランボーの名前ってジョン・ランボーだったよな....」


ロッキーやクリードでは、ちょっと気取ったところがあるのが鼻につくところがあるのだが、ランボーは武骨で、イッてるやつなのは気持ちよいところだ。

しかし、ランボーは病んでてイッてる奴だというのがわかってるから本作は受け止められたが、

ランボーを知らない若者などが見たら、単にメキシコのならず者に憤った正義感の強い屈強な老人の話ととらえられかねない。

観た直後はくだらねぇなと思ったのだが、

シンプルで飾りやひねりがなくて、いい映画だったかなと、今は感じる。




2020/06/18

第一部まで 「あれか、これか」4

やっと第一部を読み終わった。

第一部

1.ディアプサルマータ
2.直接的、エロス的な諸段階ーあるいはー音楽的=エロス的なもの
3.古代の悲劇的なものの現代の悲劇的なものへの反射
4.影絵
5.最も不幸な者
6.「初恋」
7.輪作―社会的処世訓の試み
8.誘惑者の日記


なかなか本音を言わない人である。
著者も本人ではなく、それを第三者が編集したとかいう体裁にしている。

おそらく自分の日記や習作的なものを集めているのだろうが、
多少手を加えていると思われる。

特に最後の誘惑者の日記は、キルケゴールというと必ず言及される
レギーネ・オルセンとの婚約とその破棄の顛末のようなものが記されているのだが、
これが楽しみにしていたようなものではなくて、
なぜ彼が彼女に夢中になりそして婚約しそれを破棄したのかということが、
ほとんどわからなかった。

この「日記」はひとつの文学作品として扱われることもあるようだが、
これを読んでなんらかの美しさであるとか感動を覚えることはほとんどなかった。

本当は誘惑者などではなかったのに自分を偽悪的に表現しているものらしいが、
そうだとしても、「コーデリア」に対して、一般的な「愛」というものはあまり感じられない。

ずいぶん時間がかかってしまったが、ようやく第二部に入る。


2020/05/21

google翻訳で訳してみた  「あれか、これか」 3 

vexel-driften
約束手形操作

Forsøg til en social Klogskabslære.
社会的知識理論の試み。

(ここにアリストファネスのギリシア語の詩の引用が入るが省略)

At gaae ud fra en Grundsætning paastaae erfarne Folk skal være meget forstandigt;

経験豊富な人々の前提を想定することは非常に賢明でなければなりません。


jeg føier dem og gaaer ud fra den Grundsætning, at alle Mennesker ere kjedsommelige.

私はそれらを養って、すべての人々が退屈だと思います。


Eller skulde der være Nogen, der vilde være kjedsommelig nok til at sige mig imod heri?

それとも、これに対して私に言うのに十分退屈な誰かがいますか?


Denne Grundsætning har nu i allerhøieste Grad den frastødende Kraft, man altid fordrer hos det Negative, der egentlig er Bevægelses-Principet;

この原理は現在、最高の度合いで、ネガティブに常に要求される反発力を持っています。これは実際には運動の原理です。


den er ikke bløt frastødende men uendeligt afskrækkende, og Den, der har denne Grundsætning bagved sig, maa nødvendigviis have en uendelig Fart til at gjøre Opdagelser med.

それは柔らかく反発的ではないが、限りなく説得力があり、そしてこの原則を後ろに持っている彼は、発見するために必然的に無限の速度を持たなければならない。


Naar nemlig min Sætning er sand,

私の文が真実であるとき、


saa behøver man blot i samme Grad som man vil dæmpe eller fremskynde sin impetus,

次に、推進力を弱めたり加速させたりしたいのと同じ程度に、


mere eller mindre tempereret at overveie med sig selv, hvor fordærvelig Kjedsommelighed er for Mennesket,

多かれ少なかれ、退屈が人間にとってどれほど傷つきやすいかを自分自身で考えるように和らげられました、


og vil man næsten med Fare for Locomotivet drive Bevægelsens Hurtighed til det Høieste,

機関車の危険性がほとんどあるので、移動速度を最高にします


saa behøver man blot at sige til sig selv:

それからあなたは自分自身に言う必要があります:


Kjedsommelighed er en Rod til alt Ondt.

退屈はすべての悪の根です。


Det er besynderligt nok, at Kjedsommelighed, der selv er et saa roligt og adstadigt Væsen, kan have en saadan Kraft til at sætte i Bevægelse.

奇妙なことに、とても穏やかでのんびりした退屈は、そのような力を発揮することができます。


Det er en aldeles magisk Virkning, Kjedsommeligheden udøver, kun at denne Virkning ikke er tiltrækkende men frastødende.

それは退屈が及ぼす完全に魔法の効果であり、この効果は魅力的ではなく反発的であるだけです。

--------------
基本的な語の英訳

jeg = I

ikke = not

en = one

er = be動詞

og = and

eller = or




2020/05/17

Συμπαρανεκρωμενοι 「あれか、これか」 2

いろいろ検索していたらついに「あれか、これか」のデンマーク語の原文を見つけた。

Google Playで 1076円で買えた。

デンマーク語なんかもちろん読めないが、今は瞬時に翻訳ができる。



これは「最も不幸な者」というタイトルの部分を翻訳してみたものである。

原文は「DEN ULYKKELIGSTE」であるが、選択して右クリックで翻訳すると「最悪」となる。

Συμπαρανεκρωμενοι というギリシア語のキーワードがある。

カタカナで書くと「シュムパラネクローメノイ」

キルケゴールの造語らしいが日本語にすると「ともに死んだ者たち」というような意味だそうである。

訳注に「ルキアノスとへブル書とプルータルコスにある類似の意味の語にならってこの語を作った」とある。

であれば、その類似の語とは何か知りたくなる。

iPhoneのyouversionという聖書アプリを持っているが、このアプリは聖書を各国語で読める。

ざっと見て「死者」と関係ありそうな語をギリシア語で確認してみたが下記に「νεκρωμένον」という語が見つかった。

「Γι’ αυτό, και από έναν, μάλιστα νεκρωμένον, γεννήθηκαν σαν τα αστέρια τού ουρανού κατά το πλήθος, σαν την άμμο που είναι κοντά στην άκρη τής θάλασσας, η οποία δεν μπορεί να απαριθμηθεί.」
ΠΡΟΣ ΕΒΡΑΙΟΥΣ 11:12 FPB

「このようにして、ひとりの死んだと同様な人から、天の星のように、海べの数えがたい砂のように、おびただしい人が生まれてきたのである。」
(1955年 口語訳)


ギリシア語といってもキルケゴールが読んでいた聖書のギリシア語は現代ギリシア語とは違うかもしれない。

「ネクロ」というのが死者の意味だというのは聞いたことがある。

ネクロマンサーとか、ゲームのキャラクターでネクロとか見たことがある。

「συμπαρα」は「ともに」というような意味の副詞らしい。

(参考)

あとは「μενοι」
「μένοι」だと「滞在」という意味で
「μενοι」だと「メニュー」という意味らしいが、
なんか動詞の活用語尾っぽい感じもする。


「古代の悲劇的なものの現代の悲劇的なものへの反射
ー断片的詩論ー」
に、「シュムパラネクローメノイに対する講演」と書いてあって、

「シュムパラネクローメノイ」達に語り掛ける形式となっており、
ときどき「シュムパラネクローメノイ諸君」と、呼びかけるところがある。

そして第一部上巻の最後は「最も不幸な者」は彼らへの熱狂的挨拶ということになっている。

この語は以下のように複数の綴りで書かれている

Συμπαρανεχρωμενοι
συμπαρανεκρωμεvot
Συμπαηανεκρωμενοι

編集時の誤植なのか本人の間違いなのか意図したものなのかは不明。

「あれかこれか」の後半は、前半で書いたものに自分自身で批判するような内容となっているらしい。楽しみだ。

まだ前半の半分だけど。

キェルケゴールは母国語以外にドイツ語、ラテン語、ギリシア語、イタリア語くらいは読めたようだ。

多分ラテン語とギリシア語は神学を学ぶ者には必修だったのではないだろうか。

ドイツ語は日本人にとっての英語以上、たぶん第2公用語くらいの位置付け、大学では必須というかドイツ語の講義とかもたくさんあったのでは。

そして、モーツァルトはイタリア語を読み書きできたらしく、イタリア語で書いた手紙も残っているそうだ。
ドン・ジョバンニの台本はイタリア人の作家が書いたそうだが、イタリア語がわからなければ、曲は付けられないだろう。