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旧約聖書を読む (2) 出エジプト記

Exodusである。

イスラエル民族が、ヘブルびとが、エジプトで過酷な労働を強いられ、モーセが彼らを率いてエジプトから逃げ出す。
どこへ?「カナンびと、ヘテびと、アモリびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとのおる所、乳と蜜の流れる地」である。
モーセは、「神が『わたしの民を去らせなさい、さもなくば・・・』と仰せられる」と、エジプトのパロに言った。
パロはなかなか聞き入れず、杖を蛇に変える、川の水を血に変える、疫病、イナゴの大群、暗闇などの「奇跡」を次々に見せられ、最終的には聞き入れる。
ただし、このときパロを「かたくなに」させていたのも主だったのである。
決定打は、「ういご殺し」だった。イスラエルの民とエジプトの民を区別するために、ほふった子羊の血を入り口の柱に塗らせた。
しかしパロはすぐに考えを変えて、イスラエルの民を追いかける。
そしてあの有名な紅海が割れるシーンである。(14章)
これは「強い東風によって海を退かせ」ている。
エジプトの民は海に飲み込まれる。

イスラエルの民はシナイの荒野に宿営する。
そしてモーセはシナイ山に登る。
そこで神がモーセに「おきて」を示す。いわゆる「十誡」である。
だが、その後細かいおきて、いわば「細則」が延々と語られる。

聖所、幕屋、祭壇の作り方、ささげ物(罪祭、火祭、灌祭など)に関するきまりで、なんだかさっき聞いたようなことだなと思うと微妙に違っていたりする。
やっと終わって、モーセが山を降りると、民は小牛の偶像を作ってそれを拝んでいた。
主が怒る。モーセはそれをなだめてなんとかおさまる。
が、モーセが怒ってその偶像を壊し、せっかく授かった板も割って、民同士で殺し合いまでさせる。
モーセは再度山に登り板をさずかる。また細則が延々と語られる。
とうとう幕屋が完成する。
ここまでで「出エジプト記」は終わり。


なにを持ってこいとか、血をどうしろとか、腎臓や脂肪はとりのぞけとか、色とりどりの糸がどうしたとか、うんざりするほど細かいことが延々と語られる。私はそれをいちおう読みながら、「いったいこれは何なのだろう」と考えていた。
どうしてこんなことが必要だったのだろう?こんなことは禁じている偶像と同じことではないのか?
なんのためにこんなことが必要だったのか?
「こんなことは意味のないことだ、くだらない」と言ってしまえばそれまでだが、いまだにそれが聖書として読み継がれているのだ(誰が出エジプト記を読んでいるか知らないが)。
箱舟のサイズ指定どころの話ではない。完全に圧倒されてしまった。
出エジプト記など二度と読みたくない、という気になる。

このようないけにえとか細かい戒律は、イエスが来たことによって(そして死んだことによって)われわれは「卒業」したことになっている。

でも、イエスは、パウロは、「モーセは間違っていた。彼のしたことは過ちである」とは言っていない。

確かパウロは「養育係」と言っていた。

それにしても、どういうことなのか、どういう意義が、意味があったのかがさっぱりわからない。

もっとも私はイエスが十字架について2000年程たってこの世に生まれた人間である。

すでに人類は救済されているらしいのだから、わからなくて当然かもしれない・・・