2012/10/28

旧約聖書を読む (5) 申命記

モーセが120歳で死ぬ。

その前に、今までのことと、律法を語る。民法のようなものだ。
やや「人間的」に、穏健になったように感じる。

「パンのみにて生きるにあらず」という、もはや陳腐とさえ感じる言葉はイエスのものとされているが、原典は申命記8章ではないだろうか?(私の見落としでなければ)
8:3
それで主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われた。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった。
ただ、この「マナ」は確かに天から降ってきたものであるがパンのようなおいしい食物である。単なるパンの代用品としか思えない。このことから、「人は食うだけのために生きているのではない」というような「高尚な」思想は出てこない。「やっぱり人は食べないと生きていけない悲しい生き物だ」となってしまわないか。それともこの「マナ」に関するエピソードは象徴であって文字通りに解釈してはいけないところなのか?


その他にも、「新約」っぽい言葉が見られる。
「あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない」
とか(今までにもあったかもしれないが)

エジプトを出て戦いもひと段落して落ち着いたのだろうか。


申命記を読みながら、私は「神は人間の作り出したものだ」説を吟味していた。

仮に、「神」が、それをエホバと呼ぶのかヤハウェなのかヤーヴェなのか知らないが、それが仮に、モーセの発明だったとしよう。一体何の為だろうか?なぜ血を食べることをそんなに禁じたのか?健康に悪かったからか?血をたべて病んだものがいて、厳禁としたのか?なぜ割礼をするのか?それも健康のためか?でも、「心の割礼」とまで言っている。わたしはこれについては自分なりに痛感できる解釈があるのだがここでは伏せよう。また、主の律法には、努力とか根拠とかいう考えがない。「がんばった人には報いる」ということがないのはもちろん、「功績をあげた人には報いる」という考えすらない。やるべきことをやらなかったら死ぬ、禁じられたことをやったら死ぬ、ということはある。

モーセが一民族あるいは部族を支配し教育していくために「神を造り」、本当は存在しない神を祭る祭壇を作り、それにささげ物をさせ、箱を作ってそこに律法を刻んだ石をいれて運ばせることの目的が見えない。あるいはモーセは狂人で、今で言う「統合失調症」か何かで、妄想を抱いていたというのだろうか。あるいは、後世の人がモーセと彼が率いる人々の快進撃について、「こういうことだとしたらおもしろいな」と、事実を脚色したのだろうか?


それでは、「神」は統治のためのものだろうか?人心を支配するための重しのようなものだろうか?神に逆らうと死ぬ、俺は神の代弁者だから俺にしたがわないと死ぬ、ということであろうか?牛や羊を捧げさせ、その血を抜き脂肪をや腎臓などを取り除くのは、モーセの嗜好によるものだったのだろうか?彼はイスラエルの民が貢ぐ牛肉や羊肉をこっそりおいしいおいしいと言って食べていたのだろうか?無神論者とはそういう想像をする人々である。


そして、イエスについても考えた。イエスは結局神を僭称するものとして死刑になった。それは確信犯だったのか。私はイエスは律法の形式主義を批判したために殺されたという、ごく穏当な見方をしていたが、もしかして彼は本当に単なる律法に違反して自分を神とした不届き物だったのではないだろうか。そして、これまた後世の誰かが「その不届き物を救世主ということにしたらおもしろい」と考えた創作物であると仮定してみたりもした。

でもやはり、そんな創作をする目的がわからないし、そんな創作物に2000年間も人々がだまされ続けるとも思えない。創作物だから本気にせず遊びで祈ったり懺悔したりしていたとも考えられない。

そんな考えを認めるくらいなら、「神は宇宙人だった」という説のほうがまだ信じられる。

私は宇宙人は存在しないと考えている。宇宙は人間、地球上に存在するわれわれ人類のために存在し、地球は人間のために存在している。だから、地球以外に人間(のようなもの)が存在する場所はない。そんなものを存在させる理由もない、と。


ボブ・ディランが、誰かに「聖書のどの書が好きですか」と聞かれて「レビ記と申命記」と答えた、というのをどこかで読んだことがある。Jokermanの歌詞にもそういうところがあって、私はそれを皮肉だと思っていたのだが、今回読み直してみて、レビ記と申命記は皮肉ではなく聖書の核心と言ってもよいし、おもしろいところでもあると感じた。