2012/10/30

私と聖書

「旧約聖書を読む」シリーズはちょっと休憩。

ここで、私はなぜ聖書を読むのかということを整理してみたい。

つまり、私と聖書にどういう関係があるのか。

アダムとエバとか、大洪水とか、アブラハムとか、イスラエルとか、ヨセフとか、モーセとか、サムソンとかダビデとかソロモンとか・・・

まず、聖書はクリスチャンあるいはユダヤ教徒が読むものだ、という考えの人がいるかもしれない。
だが、小説とか映画とかで聖書の中のエピソードを題材にしたり、聖句を引用したり、イエスを始め聖書の登場人物について言及することは多い。

クリスチャンでなくても、聖書にかいてあることに感動することはある。

多分、クリスチャンであっても、聖書はクリスチャンだけのものだと考えている人はほとんどいないだろう。


私が聖書を読もうというきっかけになったのは多分、太宰治である。

それからキェルケゴールの死に至る病を読んで、非常に感動したことを覚えている。

その頃読んでいたのは新約聖書である。

高校生だった。

同級生達は大学へ進学することを当然として、授業をそっちのけで受験勉強をしていた。

私も、親や兄弟がそうしたように大学へいくのは当然だと思いながら、その意義がどうしてもわからなかった。

浪人して予備校に通い、何とか大学には入学するが、ほとんど行かずに辞めてしまう。


旧約聖書を最初に読んだのは、その浪人して大学生になった頃だ。

私は「伝道」されたのである。


私は当時、少し異常な精神状態だった。

一番の重荷は受験勉強だったかもしれないが、それだけでなく、私は本当に真っ暗闇のなかでどこへ進んでいいのかわからなかった。

学業も、受験勉強にも興味が持てなかった。

太宰治やキェルケゴールやカントを読んだのもこの頃だ。



旧約聖書は伝道されたことをきっかけに読むようになった。

私を伝道した人は、ある新宗教の信者だった。

私は聖書を読んでいたし、伝道される前から神を信じていた。

当時ノートに自分の思うことを書き連ねていたのだが、「私は神を信じているのではなく感じている」と書いたことをよく覚えている。それは本当に実感で、私はなんだかものすごく高揚していると同時に底知れなく悲しいような気分を味わっていた。

その新宗教の「教義」は、世間的には異端と言ってもいいくらいの独特なものであったが、私はそれがごく正当で、当たり前すぎると思うくらいだった。いわゆる「保守的」な思想だった。


私が神を信じているとか聖書を読んでいるとか言うと、彼らは喜ぶと同時に驚いていた。

私は彼らの聖書の解釈を検証するようなつもりで聖書を読み始めた。

信者達は、その新宗教の解釈を信じていて、聖書そのものはあまり重視していなかった。

聖書を読んでいると教義で触れられていないことや、疑問を感じることがあったのだが、「聖書がすべてではない」ということについては私も彼らと同じ考えだった。「神は感じるものである」。


そのときも、私は今と同じように、「私と聖書に何の関係があるのか」ということを考えた。

私は選ばれている、救われた、という意識もあった。それはその新宗教の信者達も同様である。いや、私のように意識があったどころではなく、確信していた。


彼らは聖書を読み解釈するだけでなく、日常生活について、戒律ではないが禁欲的な考えを持っていた。

私は未成年なのに酒やタバコを覚えていたが、彼らと出会ってそれらをやめた。


そして私も自分がされたように伝道をするようになった。半信半疑のままで。

それはとても苦しかった。私は非常に積極的で多くの人に話しかけて信者の人たちからもほめられたのだが、半信半疑なので最後の最後でいつも「信者」を獲得することができなかった。

結局私はその新宗教から離れた。

関わっていたのは1年余りであった。


そのとき、自分で旧約聖書を読んだのは、今回読み終えたサムエル記までだった。


離れた後も私は保守的な考えを持ち続けた。それは信仰ではなかったが、「神を感じている」という感覚、「俺は選ばれているんだ、普通じゃないんだ」という感覚をずっと持ち続けた。


その後聖書は折に触れて読んでいた。あまりいい意味ではなく、「わが避けどころ」であった。


最近は、聖書から遠ざかっていた。仕事のこと、自分の人生のこと、日本のこと、経済とか社会のありかたを考えるようになり、神のことは考えなくなっていた。


今回読んだのも、別になにか啓示のようなものがあったわけでもなく、以前のように「神を感じている」などという意識もあまりなかった。

「そういえば俺は神を信じてたっけ」
と、思い出したような感じだ。


そしてサムエル記まで読んで、伝道された頃の事を思い出し、再び、「俺はなんで聖書を読むのか」「わたしと何のかかわりがあるのですか」という疑問を持った。

そもそも、聖書そのものが形骸化したものだという考えがある。

これは大衆に受け入れられるためにわかりやすく、事実と象徴と神話などを織り交ぜて創られたものではないかということがまずあって、

仮に聖書は本当に神聖なものであって、全部をそのまま神の言葉として受け取るべきであったとしても、それは私には縁のないものだという考えがある。

それは、別に自分の日ごろのおこないがよくないとか、酒飲みだとか、その他ここにも書けないような「不品行」をしているとかいうことではなくて、自分は選ばれていないとかいうことでもなくて、それらもあるが、

やっぱり、自分に対しては神は語られない、ということである。

私が神だと思っているのは神でないかもしれない。

聖書を読んでいても、主が語るのはごく一部の人である。

そしてその神は、ごく一部の限られた人々のための神である。

自分が契約した民以外は滅ぼしつくす恐ろしい神である。



私はアンモンびととかアマレクびととかペリシテびとのような、無割礼の、ことごとく滅ぼしつくされるべき人間なのかもしれない、というか、明らかにそうである。


でも、そんなことを言ったら世界中のほとんどの人がそうだ。


そして、今では聖書は書店に売っていて、誰もが読んで、引用して、「聖書を読むと欧米社会がわかる」などと言ったりしている。


でも、聖書はそんな一般教養のための書では絶対にない。

また、聖書を読むことで生きる喜びや目的が見つかることもない。

どちらかというと「罪」を痛感して、特に旧約聖書を読んでいると自分はいつ神に撃たれてもおかしくないと思う。

私だけでなく、現代人はほとんどそう感じるのではないだろうか。



そうなると、頼りはやはり、イエスである。

イエスは、やっぱりとんでもない不良で、反抗するもので、異端で、律法を破り聖書を否定する存在なのではないのか。

彼も、「旧約聖書(当時は旧約などという言葉はなかったが)」を読んで、暗い気持ちになったのではないだろうか。「こんなものを読んで何になるのか」と。


イスラエルの神は、やっぱりイスラエル民族のための神である。

イスラエル民族が安息を得られるように導く存在である。

そうであれば、やっぱり私には関係がない。



そして、イエスはそんな神を否定したのではないか。

一民族の安息のために異民族を殺戮しまくる神など、異民族にはもちろん、自分にさえ必要がないと。

そして彼はそれを思い知らせるために、聖書に書いてあることを本当に実現したらどういうことになるのかを体現した。

人間には絶対無理なことを、やってみせた。

そうしたら、自分を神であると言わざるをえなくなった。


その結果、死刑になった。

つまり、イスラエルの人々が守り続けた律法、ささげ物などは、それが完璧におこなわれてしまったら意味がなくなるようなものなのである。

その理想は実現しないから意味があったのである。

そんなものは、葬ってしまえ!


というわけで、イエスは自分を十字架につけることで本当に葬ってしまった。


聖書というのは、それを否定することでしか意味を持たない。

無視ではない、否定である。克服すべきものである。

「神はいない」とか、「罪などない」と言ってあざわらうだけでは済まない。


イエスは、否定すべきものを完全に肯定してその自分を否定させることによって、人々に否定させた。

彼が十字架についた意味はそういうものだとしか、今の私には考えられない。