2008/12/02

村上春樹 「羊をめぐる冒険」

「羊をめぐる冒険」を読み始めたがうんざりしてきた。やたらとセックスだのペニスだのが繰り返される。誰とでも寝る女とか。そのうちセックスはやろうと思えばいくらでもできた、とか。図書館で立ち読みした「ノルウェイの森」にもそんなことが書いてあって、読む気を失くした。もしかして村上の小説はこんなのばっかりなのか?

共感できるのは主人公が終始ビールやウィスキーをがぶがぶ飲んでいることくらいだ。

太宰も自分がもてたとかいうことをちょくちょく書いているが、彼は実際かっこいいし、あまり露骨な事はいわないから許せる。セックスがどうこうという話になったときに彼の顔が思い浮かぶとものすごく白ける。「鼠」って、奴のあだ名じゃないの?

「羊・・・」をなんとか我慢しながら読み続けてきたが、
今朝読んだ部分はとてもすばらしい描写だった。
それは電車に乗って北海道のさびれた町へ行きそこを歩く描写であるが、
比喩や皮肉っぽい言い回しをからめてなんとも言えない空虚さと寂しさのようなものを醸し出している。
これが村上春樹か・・・
と思ったところで、主人公と女の会話が出てきたところでまた少し不愉快になった。

通勤で電車に乗る時間はほんの3分程度である。
電車を降りて今日読んだ箇所のことを考えていて、以前自分が彼の小説について語った言葉を思い出した。
「新聞の折り込み広告のマンションの完成予想図に描かれているような人間の描き方」
要するに、人間を描くのがヘタなのだ。
きっとそうだ。

ジャズはメロディーを重視しない音楽である。
悪く言えばメロディーをバカにしたような音楽。
それを文学に当てはめると、人間の感情や感動をバカにしたような文体になり、
それが村上の文体である。
彼の小説の登場人物は躊躇したり恥ずかしがったりあれこれ思い悩むことがない。
これはアメリカ風なのだろうか?
ずばずばとものを言い合って、ほとんどケンカ腰ですらあり、
目に入る人物をことごとく観察しあざ笑っていくようである。
自分が相手にどう思われているかなど全く気にしない。

カフカも彼が大好きな作家のようで、彼の影響も受けているようだ。
私は審判しか読んでいないのだが、カフカと似たところもあるが、根本的に違う。
カフカには酔っ払ったような自由奔放さも物悲しさもなかった。
彼の小説から感じるものはもっと暗くて恐怖に近いくらいの不気味さである。
そのかわり人を馬鹿にするような雰囲気は感じられなかった。

村上春樹を読むようになってから、自分の文章を読むとつまらないし
文法的にもミスが多いと思うようになった。

これは他の作家ではなかったことである。
三島由紀夫や太宰や漱石やらは自分の文章とは比較対象にすらならないからだろう。

村上は世代が近いし文章も一見誰でもかけそうな平易な言葉を使っているから、自分と比較してしまうのだと思う。
しかし読み続けていると、ノーベル賞有力候補の大作家に向かって言うのもなんだが、文才は尋常じゃない。


「羊をめぐる冒険」を読み終わった。つまらなかった。

特に「冒険」が始まりだしてからは読むのが苦痛でたまらなかった。「聴け」、「ピンボール」はまあまあよかったのだが。なにがいけないって、ある模様のついた羊を探すとか、それに右翼の大物が絡んでいるとか、そういう安っぽい映画みたいな話は受け付けない。羊を探していると思ったらそのうち「鼠」を探しだして、羊男なんてのが出てきて、ついに鼠に会ったと思ったら死んでいたとか言い出す。だいたい、「鼠」って何者?主人公もそうだけど、鼠という登場人物には何の共感も覚えない。読んでいて鼠が出てくると頭の中には「鼠先輩」が現れる。真っ暗な部屋のなかで、鼠先輩と近田春夫が背中合わせでビールを飲みながらナンセンスな会話をしている情景が思い浮かんで、滑稽でしかない。セックスしたとか誰とでも寝る女とかがよく出てくるけど、そのときもあのモグラみたいな村上春樹がセックスしているところなんか、想像もしたくない。相手の女はどう考えても美しくないだろう。

そしてようやく羊を片付けたので、読みかけていた季節のない街を再開した。これはおもしろい。登場人物に生命が感じられる。今読んでいるカンドウセイキョウの話はとくに面白い。漢字で書くべきところがひらがなになっていたり、原稿用紙の字は汚く走り書きのように書かれているのではないかと思える。絵でいうと非常にラフな感じ。だが、リアリティはあり、調和もとれている。三島由紀夫とは対極な感じだ。