2024/12/24

NとW

NとWの間に何があったのかは推測や想像ですらまともな情報がほとんど見られない。

わかっていることはNとWが食事をしたこと、WがPTSDになってテレビ局を退職したこと、Nが9000万円を払ったことくらいである。

男女間のことで非常に高額な示談金であることからまず、性的な暴行があったのでは?と考えたくなるのだが、どうもそうではないような気がしてきた。

NとWのこととWの退職のきっかけになったことの関連は今のところあきらかになっていないが、ここではそれが原因であると仮定して考えてみる。

気になって仕方がないのでFRIDAYの有料記事を読んでみたが、ほとんど具体的なことは書かれていなかった。ヒントになる発言としては以下のようなものがある。


・その時点で「あぁ、もう私はダメだな」と悟った

・通院しないと、死を選んでしまうと直観した

・突発的に起きたトラブル

・その時の気候(雨)や最寄り駅、匂い、食べ物を想起するとパニック発作が起きる

・PTSDにした人たちのせいで人生を奪われることが悔しい

・なんとか立ち直ってやろう、とその場所に足を運んだりした

・会社にも関係するトラウマ

・警察に被害届を出すことも考えたが踏みとどまった

・当時の日記に「自分に正直に生きれば良かった」と書き記している


相当のショックを受ける出来事があったようで、性的な暴行を受けたことが真っ先に想像されるが、一人の男に性的な暴行を受けたというような単純なことではないようだ。

ただ、何かに逆らえずに本当は嫌なのに我慢して受け入れて傷つくようなことをされてしまった、警察には言えなかった、となるとやはり性的なこと以外に思いつかない。

しかし、そうだとしたら「人たち」とか「会社にも関係する」というのはどういうことなのか。会社ぐるみの性的な接待の強要なのか?

でも、2023年と言えばNもWもテレビ番組に常時出演していて、今さら接待をするような関係ではないと思うのだが....

そして、結局退社はしたものの、復帰して働き続けようという意思もあったようだ。もし会社ぐるみの性的接待を強要されたというようなことであれば、即退社して戻ることなど考えられないだろう。

会社としても、彼女が嫌がるとか拒否するとかいうことは容易に想像できるはずだ。会社としての命令だからあのタレントに抱かれろ、で何事もなく終わると考えていたとも思えない。

それとも、テレビ局のアナウンサーになるような女はそういうことにハイハイと従うような女ばかりで彼女が異例だったのだろうか...






2024/12/15

砂の器(1974)

朝倉海の試合を観るためにU-Nextのお試し契約をした。すぐに解約する予定だがどんなものが観れるのかなと映画のラインナップを見るとほとんど興味がわかないが、「砂の器」があった。

何度かドラマ化もされているが、映画が強烈すぎてどれも観ていない。観ようという気にもならなかった。あの作品がテレビにおさまることなど想像もできなかった。

原作は映画を観た後に当然読んだが、予想はしていたが映画のような劇的なドラマではなく最後まで読んでいない。

私が初めて見たのは、VHSテープで、1988年頃である。その時、私はその映画のことを知らなかった。ある人にすすめられて観た。

殺人事件が描かれているのだが、映画は犯人探しというより、人を殺すということに至った背景や動機(それも心情的な)などが描かれ、「犯人」を犯罪者とし悪人としてとらえそれを憎むなどという感情は観た人は抱かないだろう。

「砂の器」という題名は、殺人を犯した男の人生がそれのようにもろくはかないものであったというような、ある意味男の人生を批判するような意味があるように思う。しかし映画では先ほど言ったように男を殺人者として裁くような描き方はまったくされていない。


圧巻なのは、男の犯行であることが刑事によってつきとめられて、逮捕状を請求するために説明する場面とそこに重なるコンサートと男の人生の回想シーンである。

男の戸籍が偽装されていること、そして男の本当の生い立ちが説明される。しかし「想像するしかない」というセリフがあるが緻密な論理による推理よりもその「想像」で描かれるなんの証拠もない回想シーンこそがこの映画のクライマックスでありテーマとなっている。

何度か観ているが、今回は初めて見たときの自分の人生のことを思い出すなどしたこともあって今まで見た中で一番泣けた。

そして、あまりに心を打つストーリーなので作り話ではなく実際にこういう事件があったのではないか?と思ったがどうやら実話ではないようである。

この映画は音楽や推理小説という原作をドラマに大胆に再構成しているところなどに感心するのだが、各シーンの撮り方もとても丁寧で出演者も豪華でどうしてこんなに気合を入れて撮ったのだろうと思った。

2024/12/06

ソナチネ

1993年

公開されたとき私はまだ中学生だった。武がラジオでソナチネが全然客が入らなくて打ち切りになった、と言っていたのを聞いた覚えがある。

私がソナチネを観たのはいつだったかよく覚えていないが、「その男」よりは先に観た。HANA-BIが公開される前だったかな。キッズリターンを観た後くらいだろうか。

ソナチネは武の映画の中でも評価が高く、武自身も思い入れがあるらしい。


映像は美しく、静かな雰囲気の中で淡々と描かれるショッキングなシーンも印象的ではあるが、私はこの映画があまり好きではない。

武の映画について「暴力」とか「バイオレンス」とか言われるのだが、それはほとんどが拳銃によるものである。

私は拳銃を打ち合ったり拳銃で自殺したりするシーンが好きではない。

実感がないし、一般の人間はまず拳銃を使用することはないし使用されているのを観ることすらまずない。

それこそ映画やドラマ、せいぜいがニュース映像くらいである。

映画なので、好きな世界を描き好き放題なストーリーにして、現実にはありえない世界をつくりあげてよく、そうすることが映画の醍醐味なのかもしれないが、やはりあまりに非現実的すぎるとついていけなくなる。


観るのは3回目か4回目かくらいだと思うが、今回一つ気になったことがあった。クレーンに吊るされた男を海に沈めたり引き上げたりするシーンがあるが、ロープでしばってクレーンに吊るした人間をあのように海中に下ろそうとしても、あんな風にずっぽりとは沈まないのではないか?

調べると「肺に空気をいっぱいに吸った状態なら浮く」ようだ。いっぱいに吸ってはいなくても生きている人間の肺には空気が入っているから、たぶん浮くか沈むかぎりぎりのところだと思う。

男の体重が70kgくらいだとして、70kgの肉の塊をクレーンで吊るして沈めたらどっぷり沈むだろうが、人間の体はそうならないと思う....


どうでもいいことだが、そんなことを考えてしまう。

ただ、武はそれをわかった上であえて撮ったのではないか、とも考えた。それどころか、本当はこんな風にならないけどそうなっても違和感がないような映像にして客をある意味「欺く」ような意図があったのかもしれないとさえ思った。


途中でいったん止めて、翌日残りを観たのだが、「あれ、武の役ってどういう役だっけ?やくざ?元やくざ?一般人?」とわからなくなった。

この映画はクールでうっとりするようなシーンはあるのだが、感動ということになるとほとんどない。芸術に道徳や善悪は関係ない、というのはわかる。私もそういうものを主張するものは嫌いである。

しかし、やはり映画というものには人間のドラマというか、人情というか、そういうものが欲しい。


先日Brotherを観て「なんでおもしろいと思ったのかわからない」みたいなことを書いたが、今回5本ほど武の映画を観て、涙が出たのはBrotherだけだった。

Brotherは多分技術的には他の作品に劣るものなのかもしれないが、私の心には響く何かがあった。だから、映画館で観たときに「最高傑作だ」とまで思ったのではないかと、「その男」やソナチネなどを見た後に、気づいた。



2024/12/04

その男、凶暴につき

1989年の作品

当時話題になったがそれは「あのビートたけしが映画を撮った」ということからであって、映画そのものがどうこうという話題になり方ではなかった。少なくとも私はそうとらえていた。

興味は湧かず、劇場に行くこともレンタル(当時はまだVHSだったと思う)することもなかった。

その後武は映画を撮り続け、次第に評価が上がっていき、いつの間にか巨匠と呼ばれるような存在になっていった。私がこの映画をようやく観たのはその頃だ。

今回Bluerayディスクを買ってみたが、見るのはその時以来2回目だと思う。断片的にはどこかにアップロードされていたものを時々観ていて、あるいはこの映画に関するコメントだとか誰かが語って(ほめて)いるのを何度も観ている。

武は1947年生まれなのでこの時42歳くらいである。

当時の武をテレビで見ていた私からするともうオジサンであったが、今見ると脂が乗りきっているというか、若いなぁとすら思う。


この映画は武のフライデー襲撃事件があったせいで監督やら脚本やらいろいろ変更されたものだったらしく、純粋な北野映画ではない。

残酷さ、クールさ、説明的な場面やセリフの少なさなどは武らしさもあるのだろうが、初めての映画だから、たぶん誰かしらからかの影響を受けてはいるのではないだろうか。

最近武の映画を続けて観ているのだが、武はどうやって映画の撮り方、演じ方などを学んだのだろうと考えた。

武がどういう人生を送ってきたのかはいろんなところで語られているが映画というものにそれほど熱中していたというようでもなさそうだ。多才でいろんなことに才能がある人ではあるようで、映画もなんでもできてしまったうちの一つなのかもしれないが、それにしては飛びぬけているように思う。


2024/12/01

キッズ・リターン

1996年バイク事故から復帰したころに作られた映画である。

新聞の夕刊に載っていたレビューで絶賛されていたのを覚えている。

公開時に新宿の映画館で観た。今回はBluerayディスクを買ってパソコンで観た。

安藤政信の演技の評価が高く賞もたくさん獲ったようだが、私はマーチャンを演じた金子賢もいい演技をしていると思う。

この映画はサクセスストーリーの逆のようなエピソードが並んでいる。挫折とか不運とかいうようりも、自ら失敗するような道を選ぶような、自滅するようなエピソードである。

ボクシング、タクシー運転手、お笑い芸人と、武自身が経験したことが描かれていることもあって、そのエピソードもリアリティというか説得力がある。

また、バイク事故の経験も投影されているだろう。


この映画で失敗に終わらないのは、お笑い芸人を目指す若者たちと、最後にジムに入った3人組のリーダーのような男(花山?)のエピソードである。

花山はシンジやマサルが挫折した後、ボクサーとして成長し成功しているように描かれるのだが、あのシーンの意味が当時はよくわからなかった。

今回観て感じたのは、このボクサーもきっと自滅するように挫折するのだろうな、ということなのだが、もしかしたら、こういうお調子者みたいな奴の方が成功するということなのかなとも思った。

そしてお笑い芸人を目指すもの達は、派手な成功をおさめている様子はないが地道に努力してこれから花開いていくのではと思わせる。

彼らは武のお笑い芸人としての成功を表現しているのだろうか。自分の周りで破滅していった者たちとそれを見ながら成功していったという。


この映画は青春を描いているが甘酸っぱいとかほろ苦いというものではなく、もっと辛く苦しすぎるものだ。

マサルとシンジという「失敗した」二人が、「まだ始まってもいない」というのは、挫折してもくじけないという希望や不屈の心というよりは、もっとむなしい虚勢であり、あんなにいろんなことがあったけど何も残っていないという絶望にすら感じる。

いい映画だとは思うが、この映画に表現されていること、武が表現しようと思ったことはそんなに簡単に理解できるものではないと思う。もしかして、武自身も各シーンがどういう意味なのかはわかっていないのではないだろうか?

2024/11/30

Brother

2000年の作品。公開後すぐ観に行ったがたしか映画館は空席が目立っていた。

私は大変感動して、武の最高傑作だと思ったほどだった。

しかし周囲の人たちやネット(今ほどではないが2ちゃんねるなどで口コミ的なものはわかった)でも評判は今一つのようだった。

武映画が急に見たくなって、彼の映画はamazonなどで観られないので思い入れのある作品のディスクを5枚買った。

その中で、Brotherについては強い印象はあるものの、何度も観たとか、何がいいとかがあまり思い出せなくなっていたので最初に観た。


半分くらい観た時点で、「あれ、こんな薄っぺらい映画だっけ」という感想を持った。

なんでこんな映画に感動したのだろうと。


残酷なシーンがやはりあるのだが、この映画には怖さがない。

日米合作のため、アメリカ側の意向が入ってあまりおどろおどろしかったり、暗示的すぎることが避けられたのだろうか?

山本(武)の愛人役の女優のことはよく覚えていたが、名前も知らなかった。ネットで検索しても彼女について語っている人は見当たらず、エンドロールで名前を探すと 

Marina     Joy Nakagawa

とあって、検索するとわずかな情報が見つかった。「硫黄島からの手紙」などにも出演しているそうだ。



2024/11/27

アウトレイジ

最初のやつ。公開時に劇場で見た。今回はパソコンでDVDで観た。

武映画は好きだが、アウトレイジはあまり好きではない。劇場で観た後、がっかりしたような記憶がある。


だが、ある時youtubeか何かにアップロードされていた冒頭のボッタクリシーンを見て、引き込まれた。ボッタクられたと思いきや逆にボッタクるという展開などが。

最終的にはボッタクられたやくざは殺されてしまうのだが。

三浦友和、杉本哲太など、懐かしいメンツが登場していて、このとき彼は何歳だった、などと確かめながら観ていた。

アウトレイジが好きではないのは、残酷なシーン、グロテスクなシーンが多いのと、ハラハラドキドキのやったりやられたりの展開がなんというか、ゲームっぽいというかエンターテイメントすぎるというか。

残酷さやグロさは武の映画にはいつも多少はあるものでそれが彼の魅力であり個性でもあるのだがアウトレイジはやりすぎな感じがする。


俳優の中で魅力的だと思ったのは加瀬亮と國村隼である。

國村は演技がうまいとかではなくて、映画の中に溶け込んでいるというか表情が自然で演技していることを感じさせないようなところに感心した。

加瀬亮は、まだ若いし、役柄のせいもあるだろうが表情に乏しく見た目もキャシャだしヤクザっぽくないのだがアウトレイジという作品の中にはよくハマっている。

武の映画の俳優は、あまり表情豊かでなくセリフもいわゆる棒読みっぽいところがある。

武はあんまり自然で一般的に名優と言われるような俳優があまり好きではないように思う。


あと、名前がわからないのだがボッタクリバーの店員で指を詰めさせられたチンピラやくざみたいな役者もいいなと思った。


2024/09/01

A une passante

 A une passante


Charles Baudelaire


La rue assourdissante autour de moi hurlait.

Longue, mince, en grand deuil, douleur majestueuse,

Une femme passa, d’une main fastueuse

Soulevant, balançant le feston et l’ourlet;


Agile et noble, avec sa jambe de statue.

Moi, je buvais, crispé comme un extravagant,

Dans son oeil, ciel livide où germe l’ouragan,

La douceur qui fascine et le plaisir qui tue.


Un éclair… puis la nuit! – Fugitive beauté

Dont le regard m’a fait soudainement renaître,

Ne te verrai-je plus que dans l’éternité?


Ailleurs, bien loin d’ici! trop tard! jamais peut-être!

Car j’ignore où tu fuis, tu ne sais où je vais,

O toi que j’eusse aimée, ô toi qui le savais!


2024/07/06

松本人志論2024

YouTubeで、中山秀さんが千原ジュニアと対談しているのを観た。

まずニュースで、中山氏がダウンタウンが出てきた時に勝てないと思った、というようなことを聞いて、「まてまて、お前ダウンタウンに対してクソみたいな扱いしたんじゃないのかよ」と思って、それからyoutubeを観た。

松本氏が、ガキのフリートークで、まだ若い頃に正月に放送する(確か明治神宮でのロケ)番組で、あるタレントに尊大な態度を取られて不快な思いをし、さらにそのタレントが自分達よりも全然格下であるということを怒りを交えて話したことがある。私はその放送を確かリアルタイム(放送自体は録画だが視聴したのがという意味で)で観ていたし、youtubeにアップロードもされていたから、もう何度も観ている。(探したが今は無いようだ)

その尊大な態度をとったタレントが誰かは放送では伏せられていたのだが、中山氏であるというのはほとんど常識のようになっていて、私の中ではもう1つの事実として整理されていた。

私は中山氏を知ってはいるが、彼をお笑い芸人だとは思っていない。でも、彼も当時の「お笑いブーム」の中で、コンビを組んでコントのようなことをやっていたのも知っている。

中山氏は高校生の頃から芸能活動をしていてTVタレントとしてはダウンタウンより先輩なのであるが、年齢は中山氏の方が下だ。

正月の屈辱以後ダウンタウンは芸能界を席巻して、中山氏など比べるべくもない活躍をした。


そして、松本氏は60歳になった時にスキャンダルで突然活動を休止した。それから半年が過ぎ、中山氏を観た。中山氏を見るのは久しぶりだった。若い頃と容貌はほとんど変わらず、もう56歳になるのに若々しく、話す内容も表情も、不快に思うところは全くなかった。


むしろ、最近の松本人志の方が、金髪にしたり筋トレしたり髭をはやしたりしている外面的なこともそうだが、表情とか目の色とか、話すことの内容も、こんなことになったからあらためてそう思うのかもしれないが、くたびれていたというか、もっというと腐り始めていたような感があった。


中山氏は有名タレントではあるが、一体何者なのか、歌手でも俳優でも漫才師でもない、「なんの芸もない」、というのが私の認識で、おそらくテレビに出ている彼を見ていた人々もほとんどがそうだっただろう。


でも今回、久しぶりに彼を観て、そして彼の今までの芸能生活を振り返っている話を聞いて、自分が接してきたテレビとか芸能界とかいうものを自分でも振り返って、いろいろ経験も経てきて自分の社会人生活とか様々な人間関係の悩みやストレスと合わせて考えて、少し、自分の考えや生き方というものを考え直さなければならないと思った。


基本的に私は今回の松本氏のスキャンダルについて、告発者やその告発を載せた週刊文春に対して疑いを持っている。事実かどうかがわからないのでどちらが正しいとか擁護するとかいうことにもならないと思うが、松本氏がそんなことをするはずがない、告発は言わばガセ、ハッタリ、カマかけの類だろうと思っている。


でも、ガセでもなんでも、そういう告発が出てしまったということについては、やはり松本氏になんらかの落ち度があった、隙があった、驕りや油断があった、というのは半年経った今では認めざるを得ないだろうと感じている。


中山氏の姿を見て、彼には全くそんなつもりはないだろうが、私には(もう40年くらいになるのか)、勝ったのは彼だと思わせさえした。


そもそもダウンタウンこそ、なんの芸もないその辺にいるチンピラみたいな若者が言いたい放題言うのを売りにしたタレントだったのではないか。そういう意味ではABブラザーズもダウンタウンも、当時の素人に毛の生えたような連中がワイワイガヤガヤするタレントのひとつに過ぎなかった。


ダウンタウンに才能があるとか技術があるとかいうことが言われるようになったのは彼らが売れに売れた後だ。それまではみんな、ただ面白いから、胸の空くようなことを、痛快なことを、言うに言えない事を代弁してくれたから、応援していただけだ。


中山氏は、当時を振り返って、ダウンタウンとウッチャンナンチャンという二つのコンビの名前を出して、自分達には到底かなわないと思った、と語ったが、これも、今になったから言えることではないだろうか。


私もダウンタウンにずっと笑わされてきた。彼らの出る番組はほとんど観ていて、そのうち彼らの出る番組しか見ない、というくらいになった。

でも、私はダウンタウンのファンであるかと言われると、そうではない。

ダウンタウンが今までの芸能界に現れたタレントの中でも稀有の才能の持ち主であるとみなしているかというと、そうであろうが、果たしてそれは芸術とか文化と言えるようなものであったかと聞かれると、後世に伝えるべき何かがあるのかと言われると、ただ馬鹿騒ぎしていただけのくだらないナンセンスなその場しのぎの憂さ晴らしでしかなかったかな、というのが実際だと思えてしまう。


だったら、誰に馬鹿にされようと、嫌われようと、売れて生き残った方が勝ちではないのか。


何年も、何十年も前の事を蒸し返すような告発が最近いくつかあったが、

中山氏の出演も、非常に穏健ではあるが、一切明示されてはいないが、私にとってはその一つであった。「俺は彼らには全く勝てなかった」と言ったことが、逆に彼の勝利宣言のように聞こえた。


(追記)

これを書いたあと「街録チャンネル」で中山氏が「明治神宮事件」のことを語っているのを見た。明治神宮、野球ネタ、というキーワードからこのことで間違いない。

中山氏は、「自分がダウンタウンにネタを変えさせたなどということはない、そんなことができる立場ではなかった」と語っている。

松本氏が話を膨らましたというかデッチあげたのか。「ABブラザーズとかいうつまらないコンビのためにネタを変えさせられた」という屈辱から話を作ったのか。松本氏はその、ネタを変えさせられたときのことを、変えさせた人物のマネをしながら語っていた。繰り返すがその人物が誰かは放送を見てもわからない。もしかしたら、プロデューサーとかディレクターとかなのだろうか。


2024/06/19

尾崎のパクリ曲

「ダンスホール」

これは残念ながらJackson Brownの The Roadのほぼ丸パクリである。

ずっと知らなかったが、そういう話を聞いてThe Roadを聴いたときすぐわかった。


だが丸パクリはこれくらいだろう。

あとは、曲の雰囲気とか出だしとかだけである。

サビとか全体の構成は彼のオリジナルになっている



「LIFE」(「街路樹」に収録)

Beatlesの A day in the life

Aメロというのか、最初のメロディーがほぼそのまま

ずっと気づかなかった。「LIFE」という語まで入っているのに。


Bow!

Bruce Springsteen のCrash on you


「汚れた絆」

Springsteen の No Surrender


forget-me-notの歌いだし

東鳩オールレーズンのCMソングの歌いだし


I love youの、「アイラーブユー」のところ

Kool and the gangの Joannaの I love youのところ


Freeze moonの途中が

Thunder roadのoh oh oh thunder road


なんか聞いたことがあるけどどの曲かわからないもの

ロザーナ(スプリングスティーンかハマショー)

音のない部屋


言われているがそうかな?というもの

卒業が「津軽海峡冬景色」(3連符なだけじゃ?)

存在がシンディローパーのgirls just wanna have fun(イントロは似てる)

十五の夜がspringsteenのjungle land

17歳の地図が Born to runとかThunder roadとか



2024/05/31

アンナ・カレーニナ(第七編、第八編)

退屈を感じた第六編のあと、また怒涛の展開となって、第八編はエピローグのような感じだった。

リョーヴィン夫妻の子が生まれ、アンナが自殺する。

ヴロンスキーとアンナ、リョーヴィンとキチイの二組のカップルが対照的に描かれる。

タイトルは「アンナ・カレーニナ」であるが、トルストイが描きたかったのは、描きたかったというか、描くべきだと考えたのは、リョーヴィンとキチイ、そしてその子の方だったのだろう。

アンナはなぜ自殺したのか。その心理は詳細に描かれている。まるで、彼女と一緒に自分が死んでいくような気にさせられる。

彼女が死んだのは良心がとがめたのでもなく、不倫を世間に非難されて追い詰められたのでもなく、ヴロンスキーを苦しめるためだった。

もちろん、それだけではないのだろうが、最終的には彼女は愛情の冷めたヴロンスキーに復讐するようなつもりで死んだ。

アンナとヴロンスキーのエピソードだけでも一つの小説になりそうであるが、本作はそのエピソードと同じくらいリョーヴィンとキチイのエピソード、特にリョーヴィンの心理や思索が描かれている。

それによってこの小説は救いようのない悲劇とならず、衝撃や悲しみを感じつつも生に対して肯定的な考えを持つことのできる作品となっている。

アンナ・カレーニナ(第六編)

第六編は、正直言って退屈で読むのが苦痛にさえなった。

それまでは「やはりアンナ・カレーニナは素晴らしい小説だ、トルストイは世界一の、歴史上もっとも偉大な作家だ」くらいに思っていたが、第六編は退屈で何のためにこんな話をだらだらと書いているのか、と疑問に思うほどであった。

リョーヴィンが結婚し、アンナとヴロンスキーには子が生まれてカレーニンとの離婚は成立しないものの事実上彼らは夫婦のように暮らす。

二つのカップルの間には小さな嫉妬、喧嘩が起こる。リョーヴィンとキチイの間にはないが、アンナとヴロンスキーの間には愛情が冷める兆しがみられる。

狩りの話、選挙の話、などが続き、アンナはとにかく離婚を成立させたいと強く思うようになる。

約8割読み終わった。いよいよ第七編。

2024/05/30

アンナ・カレーニナ(第五編)

Kindleアプリで、人名とか、気になったフレーズとか、誤植というか誤字というか、そういうところに色やメモを付けながら読んでいる。

iPhoneで読んだりPCで読んだりしているが、PCつまりWindows用kindleアプリは出来がだいぶ悪い。検索を何度かするとクラッシュしたり、行をまたいで選択すると余計な文字列が選択されたりする。

わざわざ端末を買うほどのことはないだろうと思っていたが、kindle端末を買おうかなと思い始めた。そこで、Windowsアプリの出来が悪いのも、端末を買ってもらいたいからおろそかにしているのかなと思った。


アンナ・カレーニナを第五編まで読んだ。(編でいうと8分の5、新潮文庫でいうと中巻まで、kindleのパーセンテージ表示だと67%)

ここまで読んでくると文体のクセ、訳文のクセ、登場人物の把握などができてスイスイ読めるようになる。最初は1章ずつ読むくらいだったのだが、今はどんどん読む速度が上がっている。

ロシア人の人名は呼び方がいくつかある。「アンナ・カレーニナ」と言ったり「アンナ・アルカージエヴナ」と言ったり、「カレーニン」と言ったり「アレクセイ・アレクサンドロヴィチ」と言ったり。「オブロンスキー」とか「スチーヴァ」とか。

アンナがカレーニンを呼ぶときは「アレクセイ・アレクサンドロヴィチ」となる。アレクサンドロヴィチは父称と言って、苗字ではない。

「アンナ・カレーニナ」は、「カレーニンの夫人であるアンナ」ということになり、「アンナ・アルカージエヴナ」は「アルカージイの娘であるアンナ」ということになる。

米川訳では父称を付けて呼ぶところをそのままカタカナで書いているが、木村訳は「主人」とか「あなた」としたりしている。父称は日本人にはなじみがないので、その方がわかりやすいだろう。

ただ、カタカナで書かれていると、その人を呼ぶときのその人の心情とか心理が少しわかるような気がする。


トルストイの描いている社会は貴族社会である。裕福な人々で、知事だったり、召使や家庭教師をやとっている。私の生活とは縁遠い。しかし、読んでいてそんなに違和感を感じることはない。芝居やオペラか何かを観に行くとか、みんなで集まって話をするとか、「社交界」とかいうものにも縁はないが、まあ、飲み会に毛が生えたようなものだと思いながら読んでいる。

しかしあらためて違和感を覚えるのは、アンナは不倫相手を家に入れ、その子を自分の家で産み、それをカレーニンも快く思わないながらも容認しているところである。現代の日本では考えられないことだろう。

そしてアンナとヴロンスキーは産んだ娘と一緒にイタリアへ行ったりする。そしてロシアに帰ってきたかと思えばこっそりというか無理やりというか家に帰って息子にあったりする。そのときも夫とすれ違ったりする。

貴族社会というのは、こういうことがある社会だったのだろうか。

リョーヴィンの幸福な結婚生活が描かれていたと思っていたら、兄の悲惨な死のエピソードが出てきたりする。

結婚、死、出産等は誰もが経験すると言ってもいい出来事ではある。不倫は誰でもとは言えないがそんなに珍しいことではなく、ちょっとした浮気程度であればしない人の方が少ないかもしれない。

それらのエピソードはほぼ客観的に描写されている。

トルストイの小説を「貴族社会を描いたもの」として読む必要はないと思う。トルストイ自身にも、貴族社会を描こうとしたつもりはなかったと思う。登場人物たちの生活は外国でもあり時代も違うから多少違和感や疑問を感じることはあるが、感情とか心理とかいうものは私でも十分理解できる。



2024/05/29

アンナ・カレーニナ(第三篇、第四編)

第四編まで読み終わった。話が劇的に進んだ。

リョーヴィンが社会改革のようなことを考えている。これは共産主義と似ているがそれとは異なるものだと本人が言っている。

アンナの不倫はどうにもならず、カレーニンは離婚を考え弁護士に相談するがどうしても踏み切れない。

リョーヴィンはキチイと結婚することになる。

アンナが子を産み、体調を崩して死にそうになる。ヴロンスキーがピストル自殺を図るが一命はとりとめ、その後アンナとヴロンスキーはイタリアへ立つ。

この小説の中心となっている二組の男女の関係が、対照的に不幸と幸福に向かって進んでいく。

描かれ方が非常にリアルで、人間関係も多様に多方向から描かれているのであたかも現実を見ているかのようだ。

「戦争と平和」に描かれた会話はすべてトルストイ自身が見聞きしたものであって自分で「創作」したものはひとつもない、という話を聞いて感心したのだが、「アンナ・カレーニナ」もそうなのだろうか?「アンナ」は起こる出来事が個人的なことではあるが深刻である意味戦争などよりも重いことかもしれない。こんな出来事に関わる男女の心理など、自分が経験しなければ知ることはできないだろう。

リョーヴィンがトルストイ自身をモデルとしているとよく言われるが、彼もいろんな経験をしていてそんなに純朴で清廉潔白な人間ではない。多分、オブロンスキー、ヴロンスキー、カレーニンすべてにトルストイ自身が投影されているだろう。

アンナについては、プーシキンの娘がモデルだとかいう話もあるがどこまで本当かわからない。今まで読んだ感じだと、アンナという女性はトルストイの創作である部分が大きいように思う。

トルストイ自身がそして読んでいる私が男性だからそうならざるを得ないのかもしれないが本作を読んでいて感情移入するのはアンナではなくヴロンスキーやカレーニンの方だ。リョーヴィンについてはニュートラルな存在なので感情移入するということもない。

kndleで米川正夫訳を読んでいるのだが、ちょくちょく疑問を感じる表現が目に付く。脱字もある。日本語としてこなれていないところがある。そういう個所を新潮文庫の木村浩訳で見てみると「こなれた」日本語で書いてある。

kindle版を読み始めてから少し内容が把握しにくくなったような気がしていたのだが、読み進めてきて、明らかに木村訳の方が読みやすい。

ただ、あくまでも私が読んでいるのはロシア語の翻訳である。微妙なニュアンスは翻訳ではわからないだろう。むしろ、こなれた日本語にしてしまうと原文の微妙なニュアンスが訳者の意図で消されてしまうようなこともあるかもしれない。


2024/05/16

アンナ・カレーニナ(第二編)

第二編まで読み終わった。

iPhoneのkindleアプリで米川正夫訳を読んでいるが、文庫本で持っているのは新潮文庫の木村浩訳の上中下巻である。

第二編までが上巻に収められているが、分量的には第二編までで31%である。kindleだとページの下にパーセンテージが表示される。

アンナの「不倫」が進行し、夫にも知られる状況となった。この「不倫」は夫の目を盗んでこっそりおこなわれたようなものではなく、心から夫に愛を感じなくなり、別の男を心から愛してしまった本気の恋愛である。

私はこの作品においてアンナは清純でむしろ兄の不倫を憎む聖母のような存在なのかと思っていたのだがそうではなく、むしろアンナこそが不倫に溺れてしまうのだった。

そして私はこの作品を読んでいて、だんだん、トルストイの女性嫌悪、特に性欲に対する嫌悪というものが感じられてきた。もっというとミソジニーである。

アンナの不倫は事情があって仕方のないことだというようなものではない。夫に魅力がなくなり愛情も感じなくなったとは言っても他の男を愛することが許されるようなことは何もない。単なる浮気でしかない。

トルストイはなぜこのような不倫に落ちる女性を主人公とした作品を書こうと思ったのだろうか。そこに何を感じたのだろうか。モデルはプーシキンの娘だとかいう話も読んだが、ここまでではアンナは魅力的な女性ではあるが高潔で立派な人物としては描かれていない。

むしろ、その周囲にいる素朴な人々をそれと対比させて、それらの人をたたえているように感じる。

2024/04/09

大藪春彦 「野獣死すべし」(1958)

大藪春彦の名前は知っていた。主に角川映画の原作者として。でも映画も小説も、ほとんど内容を知らない。高校の同級生に大藪春彦の小説が好きだという男がいて、『俺は読んだことないなあ』と思ったがそれでも読まずにいた。

映画『TATTOOあり』を観て、銀行立てこもり事件を起こした男(こういう時に「犯人」と呼ぶのがどうもしっくりこない)が大藪春彦の小説が好きだったらしいと聞き、いったいどんな小説なのかと思って「野獣死すべし」を読んでみた。kindleで。

「野獣死すべし」と「野獣死すべし 復讐編」という2作品が収められているが最初の方だけ読んだ。

なんともつかみどころがないというか実感が湧かないというか。銃を撃ったり人を殺したりしたことはない。殴ったことも子供のころのケンカくらいしかない。戦争の経験も、人が殺されるのを見たことも、マンガや映画でしかない。大藪春彦はかなり壮絶な幼少期を送ったようだが、ここに描かれているのどこまでが実体験でどこまでが読んだ小説の影響でどこまでが想像、空想なのだろうかと思いながら読んでいた。自分の経験したことしか書けないとか言ったそうだが、本当だとしたらとんでもない犯罪者になってしまう。

中学生の時、平井和正のウルフガイシリーズというのがおもしろくて何作か読んだ。それと似たような世界を感じるが、もっと残酷で暗くて、不可解である。ウルフガイシリーズはSFのような、娯楽的なものだったが、大藪春彦の世界はそんなものではない。半分くらい読んでも感心したりなるほどと思うことすら全くと言っていいほどない。

でも、三島由紀夫は公言はしなかったが大藪春彦の愛読者であったとか、江戸川乱歩に絶賛されたとか、タダモノではないのだろう。

でも、私にはさっぱりわからない世界である.......

タイトルの「野獣死すべし」がよくわからなかったのだが、おそらく「人間とは言えないケダモノのような奴は生きる価値がないから死んでいい」みたいな意味だ。そして The Beast Must Die という小説があるそうなのだがそこからとったのではないか。

まあ、私に言わせればこの主人公こそ「野獣」だが....

1958(昭和33)年というのは思ったより昔の作品だった。
文体自体にはあまり違和感を感じないが、こういう文体が当時は斬新で皆がマネをしたから今私が読んでも違和感を感じなくなっているのかもしれない......

2024/04/08

TATTOO<刺青>あり (1982)

高橋伴明監督、宇崎竜童主演。

1979(昭和54)年におきた銀行立てこもり事件を題材としているが、事件そのものでなく事件にいたるまでの主人公を描いており、猟銃を持って銀行に乗り込むところまでは描かれているがその後立てこもり射殺されるまでは描かれていない。

この事件があった時私は小学生だったが、人質を裸にしたとか人質により人質の耳を切り落とさせたとか、最後射殺されたとか、報道された犯人のいでたちの異様さとか、ちょっと変わった名前とか、よく覚えている。

犯人(Aとする)の生い立ちなどについてはかなり詳しく判明しているようで、本も出ている。15歳の時に強盗殺人を犯したが少年であることから比較的短期間の服役で出所し20歳で観察処分を終えている。

水商売やヒモなどで生計を立てていたようだが極貧ということもなく、金遣いは荒いがそこそこの暮らしをしていたようだ。また、知性も教養もない欲望におもむくままに生きていた人間のようなイメージだったが、読書家であったり借金の返済には義理堅く几帳面だったりと、粗暴なだけの人間ではなかったようである。

銀行強盗を思い立ったのはカネに困ったということだけではなく、30歳までにデカいことをやってやるという意識もあったのだという。

どこまで本当だかわらないが、暴力団組長暗殺未遂を犯して惨殺されたBの愛人だった女がBの死後、Aの愛人となっていたのだという。

映画ではその女性をモデルとしたと思われる女性(関根恵子)が登場するが、一時愛人のような関係にはなるが、別れた後Bの女になっていて、その時にはその女はAに心はなかったという風に描かれている。

Bの事件が起きたのは1978年7月で、この立てこもり事件が起きたのは1979年1月である。

映画では、新聞か何かでAがBの事件を知り、それにも触発されたように思わせるシーンもある。

私はAの事件もBの事件も知っていたが、こんなに短い間に、ほとんど同時といっていいくらいに、起きていて、しかもその二人に共通の愛人がいたというのは驚きだった。

あと、関根恵子はこの映画を撮った後に高橋伴明と結婚していたというのも驚きだった。彼らが夫婦であることも夫が映画監督であることも知っていたが、この映画の縁だったとは。

それから、この映画が作られたのが1982年で「竜二」が1983年である。背景となる街並みや画質がいい感じに鮮明過ぎないところなどが竜二と似た雰囲気がある。竜二はこの映画に影響を受けているのでは?とさえ思った。まあ、これは「ATGっぽさ」なのかもしれないが、私はほかにATGの映画をほとんど知らないので何とも言えない。

2024/03/24

アンナ・カレーニナ(第一編)

ずっと読みたいと思っていたが、ようやく読み進められた。

とりあえず第一編を読んだ。

新潮文庫の木村浩訳を読んでいたのだが、出張で長時間移動があった時に読もうと思っていたが文庫本を持ってくるのを忘れ、駅の本屋で買おうと思ったがなかったのでKindle版の米川正夫訳を買って、それ以来そちらを読んでいる。

訳文にも良しあしやクセがあるだろうが、木村訳から米川訳に切り替わって違和感をおぼえることはほとんどなかった。

なんとなく、木村訳の方がよかったような気もするが、本当になんとなくだ。どうしてそう思ったのかというと、kindle版を読むようになって内容が頭に入ってきにくくなったからだ。第一編の終わりの方になって、なんでこんな事になったのか、トルストイはなんでこんな場面を描いているのかと感じ始めた。

私はロシア語は読めないが、聞いた話だがトルストイの文体というのはクセがなく平明であるらしい。なので、翻訳者が変わってもニュアンスが変わるようなことが少ないのではないかと思う。

米川正夫の翻訳は、ドストエフスキーで読んでいる。カラマーゾフは岩波文庫の米川正夫訳で読んだと思う。

さて、アンナ・カレーニナについてだが、これは「不倫」の話である。まず、ある男(オブロンスキー)の不倫により家庭が崩壊しかかっている話から始まる。が、オブロンスキーは主人公というほどの重要人物ではなく、題名となっている「アンナ」の兄であり、その他の重要人物の友人であったり知人であったりする、きっかけとなるような人物である。

普段はしないのだが、今回は本作の概要をウィキペディアなどでざっと調べた。それによると、この作品はアンナの不倫が中心となっているようである。冒頭で語られるオブロンスキーの不倫は、それにくらべたらまだ小さな、取るに足らないちょっとしたもめごとにすぎない。そもそもアンナは兄の不倫の話を聞いて兄の元に駆け付け、兄の妻と話をし、仲裁のようなことをする。しかし、そのアンナが不倫をし、自殺までしてしまうようなのだ。

オブロンスキーの不倫は深刻でない代わりにまったく感情や欲望に流されただけの不倫である。第一編ではまだアンナの「不倫」はそのきっかけのような部分しか語られていないが、たんなる欲望に流されただけのものでないだろうことは察せされる。

たくさんの登場人物がいること、長編であること、その描写が客観的で話の展開も自然で無理がないところなどは戦争と平和を読んだ時にも感じたのだがNHKテレビの「大河ドラマ」のようだと思うのだが、これも以前にも述べたが大河ドラマの方がトルストイをマネしているのだと思う。

トルストイはドストエフスキーと同時代の長編作家でありよく比較される。私の印象では、トルストイの方がまじめで常識的、ドストエフスキーは過激で激情家であり、トルストイは退屈、ドストエフスキーの方が刺激的でおもしろい、という感じで捉えられているように思うが、実際はトルストイもなかなかの過激な人物だと思う。

それは、クロイツェル・ソナタを読んだときに感じた。

トルストイも、放蕩におぼれたり金儲けに失敗したりという経験をしている。まあ作家になるような人間はだいたいろくでもない青年期を送っている場合が多い。しかしよく言われる「放蕩」って何をさすのだろう。


2024/01/04

ダーウィン「種の起源」

岩波文庫(Kindle版)

Charles Darwin
ON THE ORIGIN OF SPECIES BY MEANS OF NATURAL SELECTION OR THE PRESERVATION OF FAVOURED RACES IN THE STRUGGLE FOR LIFE (1859)

八杉龍一訳(1963~1971)


私は酔っぱらうと「進化論」を否定したくなる。ツイッターに書いたり、ブログに書いたり、喋って動画に撮ったりする。しかし、自分が撮った動画を見ていて、そもそも自分が否定している「進化論」が、本当に自分が思っているような考えなのか、確認せねばなるまいと思った。

最初の章を読み始めて、今まで読んだことのない文体だと感じた。翻訳文が、普通は漢字で書くところがひらがなになっている箇所が多いのに違和感を感じてなかなか読めなかった。最初に、栽培する植物は自然状態よりも変種が多い、みたいな話から始まった。なかなか自分が持っているイメージの進化論が語られないので、目次をざっと見て、最後の方にある第十四章「要約と結論」から読んだ。

そこに書かれていたのは、自分が思っていた、学校で教わったりした「進化論」の内容とほぼ同じだった。しかし、思っていたよりダーウィンの論調は穏やかというか緻密というか飛躍や暴論がなく、非常に多くの実例、根拠が示されていて、読んでいて疑問を感じたり反感を抱くことはほとんどなかった。

そして驚いたのが、私がよく思ったりしゃべったりする「進化論に対する疑問」というものが、ほとんどすべて、すでに想定されてそれに対する回答が示されていたことだ。十四章に続く「付録 自然選択説にむけられた種々の異論」においては、特にマイヴァートという動物学者の異論がたくさん紹介されていて、それらがほとんど自分が抱く疑問を網羅していた。

要約と結論、そして異論に対する回答を読んだ後、各章をざっと読み返した。ひとつわかったのは、ダーウィンの言う「進化」というのは、特に動植物が意図して特定の方向に変化していったのではなく、ほとんど偶然に発生した微細な差異が、その環境で生存し生き残るのにふさわしいものが自然によって「選択」され、長い年月を経てそれが蓄積して現在あるような姿になったということである。その「選択」はその生物にとって必要で有用であるものに対してだけでなく、不要で使用しなくなったものが「退化」することについても作用するのだった。

だがやはり、私は進化論に対して否定的な思いが強い。わたしには生物が今あるような姿になったのにはある「意志」のようなものが働いているとしか思えない。ダーウィンがしきりに言う「人間が栽培する植物において自然状態より変種が多く発生し交配によって変種が生まれていく」というのはまさに、生物の「進化」が外部の目的を持った意志のようなものの働きによって起こることを示しているように思えてならない。別に「創造」といっても、個々の生物をそれぞれ神が粘土をこねて箱庭に置くように造ったというわけではない。私は、ダーウィンの言う長い年月を経て繰り返される自然選択というものは、神が意図した創造が長い年月を経て完成した、ともいえるのではないかと思うのだ。

あらためて創世記も読み直してみた。そして気づいたのが、何度も繰り返される「種類に従って」創造されたという記述である。まるで、後に進化論が提唱されるのを予期して、そうではないのだとあらかじめ念を押しているかのように見えた。もしかして、進化論が発表されたあとに付け加えられた記述ではないかとさえ思ったが、King James Versionを読んでも

And God made the beast of the earth after his kind, and cattle after their kind, and every thing that creepeth upon the earth after his kind: and God saw that it was good.

というように、after his(their) kind と繰り返し書かれていた。


私だって子供のころに、いったんは「神が創造したなんて昔の無知な科学が未発達な時代の人々の誤った考えなのだ、天動説と同じように」と納得した。

しかし、ある時から私は進化論も、天動説も、絶対王政や貴族政治から民主主義になったことも、本当に正しかったのだろうかと、疑問を持つようになったのだ。

多様な生物が偶然あるいは環境に適応しようとして発生した変化が積み重なって自然にできあがったと考えるのが不思議で驚くべきことなのは、神が創造したと考えるのがそうであるのと同じくらいではないだろうか?