2012/11/03

新約聖書を読む (3) ルカによる福音書

「あなたの罪は許されたと言うのと、起きて歩けと言うのと、どちらがたやすいか。」

私はこれの答えがわからない。こういう言い方はわれわれもよく使うが、それは何かを教えるときに、答えを教えてしまうのは簡単だがそれでは学んだことにならない、自分で答えを出すように導く、というような使い方である。しかし、イエスのこの質問は、それと同じように考えてもわからない。

病人に対し、最初は「あなたの罪はゆるされた」という。しかし、パリサイ人の論議を聞き(見抜いて)「どちらがたやすいか」と聞いた後に、「起きて歩け」と言った。

結局、どちらがたやすいのか。最初に言ったのが「罪は許された」であるから、おそらく「起きて歩け」という方がたやすいのであろう。でも、それではいけなかったのだ。

どうしていけなかったのか?「罪はゆるされた」と言われたら起きて歩かねばならないのか。

つまり、罪が許されるというのは、イエスの一言でなされるのではなく、「許された」という言葉を聞いた者がそれを信じて行動することが必要だ、というような意味なのだろうか?

しかし、そうだとしたら、「起きて歩け」とは言ってはならなかったのではないだろうか?


それからもう一つ、イスカリオテのユダの「裏切り」について。
イエスは自分が捕らえられて十字架につく事を知っていた。知っていたというか、そのために来たということを言っている。そうであるなら、ユダのしたことは「み旨」に、神の意志にかなうことではないのか?実際に、イエスが十字架につくことは予定ではなかった、という考えの人たちがいるのを私は知っている。

しかし、少なくとも福音書は、イエスは十字架につくために生存したということを伝えている。もし、そうでないなら、それは作者の無知ということになる。私は聖書を読むときには、とりあえずは作者の意図を読む。そもそも、何かを読む、人の話を聞くということはそれでしかない。最初から否定する目的で、批判する目的で、揚げ足取りをするつもりでは、何も受け取れないのだ。私が聖書について提示する疑問は、あくまでもその理解を深めるための疑問である。



私は神を、聖書で主と書かれている神が存在することを信じている。また、イエスが実在し、十字架についたことは事実であると信じている。しかし、その「信じている」というのは、客観的科学的に情報や資料を吟味してたどりついたものではない。聖書を信じないのは自由だが、では聖書ではない書物はどうして信じられるのか。聖書を信じようとフラウィウス・ヨセフスを信じようと、それはその人の意思や信念に過ぎないのは同じことではないか。

だから、私はひとつ間違えば、ふとした時には「イエスなど存在しなかった」あるいは「単なるカルト宗教をおこした狂人」であって、ユダヤ教みたいなメンドクサイものを廃止したほうが楽しく生きられるという誰かの創作物なのだと考えることもある。

そんなときには、中途半端に科学的客観的な判断で「イエスという人は実在し、彼の言動には一目置くが私はクリスチャンにはならない」というような穏健な態度をとる人を私は軽蔑する。イエスというのは、信じるか否定するかのどちらかだ。ひとりの天才宗教家とか、思想家のようにみなすことは私がもっとも嫌うことである。