2012/11/03

新約聖書を読む (9) ガラテヤ人への手紙

短いが、これは非常に重要な書である。

私の友人でクリスチャンである男は、「聖書のエッセンスはローマ人への手紙だ」と言った。

しかし、私は新約聖書で最も重要なのはローマ人への手紙ではなく、本書だと思っていた。そのことは彼には言わず、割礼のことをちょっと茶化しぎみに話したことを覚えている。

「ガラテヤ人への手紙」の重要性は、昔読んだ本の中でも指摘されていた。というか、私はその本をきっかけによく読んで、その通りだと思うようになったのである。


この手紙は、想像だが、パウロが伝道する新しい教えが広まり始めた後で、あまりに律法が軽視されていることに不安を感じた人々が、律法の重要性を指摘し始めたことに対するパウロの反対意見であろう。

あれほどそむき続けた律法が、今度は何度言ってもやめられなかった偶像のようなものになったのである。

パウロはパリサイ派だったから、律法のことはいやと言うほど知っていて、それに人々が悩まされ重荷となっており、しかもそれによっては救われないことを痛感していたから、律法ではなく信仰を重んじるイエスの福音を聞いて、信仰の重要性を強調した。

そしてこの手紙は、それに対する反動のように律法へ帰ろうと言い出した人たちに対して書かれたものなのであるが、パウロは「もう律法なんか守らなくていいんだ」とは言わない。イエスが「律法を成就するために来た」と言ったように。


それでは、律法はなんであるか。それは違反を促すため、あとから加えられたのであって、約束されていた子孫が来るまで存続するだけのものであり、かつ、天使たちをとおし、仲介者の手によって制定されたものにすぎない。

このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。しかし、いったん信仰が現れた以上、わたしたちは、もはや養育掛のもとにはいない。