2012/11/06

聖書は創作物か

村松剛著「ユダヤ人」(中公新書)を読んだ。

この中で、旧約聖書の内容を、考古学者などが研究した「史実」と照らし合わせていくところがある。

たとえば「大洪水」であるが、紀元前4000年頃、「ペルシャ湾から北西に約500キロ、幅百七十キロつまりメソポタミア平原のほとんど全部に及んだ」とか。

「部族を統一するためには、共通の過去、共通の運命を強調しなければならないから、教えは必然的に歴史的に、―歴史主義的になる。」

つまり、著者は神も聖書もモーセの創作物だと言っている。「モーセエジプト人説」まで紹介している。

聖書に書いてあることをそのまま信じるほうが無理があるかもしれないが、私は数千年を超えて読まれてきた書でもあるから敬意を払って、基本的にすべてを受け入れる立場である。

そのような立場についての異論というか、信条の違いみたいなものはあるが、非常に参考になることが書いてあった。

異教の偶像崇拝のことを「姦淫」ということについてであるが、やはりそれは文字通りの肉体による淫らな性的行為が伴っていたようだ。ひとつは豊作を祈願し酒を飲み踊り乱交する「オルギア」。

それから、「神殿娼婦」という、「売春」を聖なる行為とする習慣があったようである。神殿娼婦、神殿男娼という言葉は聖書にもあった。


私は聖書にはある程度の誇張や象徴的な表現が含まれているとは思うのだが、本質的な虚偽はないと思っている。民衆を従わせるとか部族統一などのために創作されたものではないと考えている。


よく日本人には「日本教」という宗教があると言われる。だいたい悪い意味で言われるようだが、日本人は勤勉で謙虚で礼儀正しいのは間違いない。しかもそれは、戒律とか神なしに実現しているのである。これは本当に驚異的なことだ。はたしてこれは「天皇」によるものだろうか?ニュースや新聞では「天皇陛下」と呼ばれる。「陛下」をつけなかったら大問題になるだろう。日常生活では天皇という存在は日本人にとってほとんど縁がない。しかし、だからと言って天皇が軽んじられているわけでもない。

天皇はまさに日本国民の「父」のような存在で、これは理想的な徳治する王ではないだろうか。

会社勤めをし、むやみに転職せず、時々居酒屋で宴会をする、という日本人の働き方も、「日本教」ならではだと思う。私は「飲み会」が非常に苦手だ。酒を飲むのに、節度を失ってはならず、この会には厳然たるタブーがある。


私は本書を読んで、なんだか寂しくなったというか、興ざめした。
聖書を読んだときに味わった昂揚がすっかり収まってしまった。

聖書のダイジェストというか、「聖書とはこういうことが書いてある」という本は、買ったことはないが立ち読みでパラパラと見てみたことがあるが、聖書は要約し得ない。

聖書には互いに矛盾するような書が一緒に収められている。その一番わかりやすい例が新約聖書と旧約聖書である。その他、細かいところで食い違うようなところ、不明なところもたくさんある。

だが私は、それらを全部読んで、その矛盾や疑問まで含めて、聖書には意味があると思っている。創世記から始まって、律法、歴史、詩、預言、黙示などが集められた。この執筆と編纂も数千年に渡って行われてきた。それを、アブラハムかモーセかわからないが、だれかが創作し、それを子孫が引き継いで受け継がれたものだとは私にはどうしても思えない。