2012/11/01

旧約聖書を読む (26) エゼキエル書

これは他の書とガラっと雰囲気が変わる。イザヤ・エレミヤも少し違うのだが、エゼキエル書は前衛的というのか、異様な雰囲気さえ漂う。

のっけからバケモノかUFOとしか思えないものが登場し、エゼキエルの預言はたとえだらけでまた絶望的な預言が続く。その対象はエジプトにまで及ぶ。

そして、偶像を禁じ怒るのはいつものことだが、14章「人の子よ、これらの人々は、その偶像を心の中に持ち」と、石や木の像でもない偶像にまで言及される。偶像とは無形の神をカタチにするという
だけの意味ではなかったのだ。

また、「姦淫」についても今まで以上に厳しく叱り、「淫乱」という言葉まで出てくる。わたしはこの姦淫はあくまでも崇拝などの意味のたとえとしての言葉だと思っていたのだが、ここまでしつこく繰り返され、さらに人々がやめないところを見ると、本当に文字通りの「姦淫」なのではないかと思えてきた。

ただしところどころにチラっと光るような希望的な預言が出てくる。
11章「彼らのうちに新しい霊を授け、彼らの肉から石の心を取り去って、肉の心を与える」
34章「わたしは、うせたものを尋ね、迷い出たものを引き返し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くし、肥えたものと強いものとはこれを監督する」
「わたしは彼らの上にひとりの牧者を立てる。すなわちわがしもべダビデである。彼は彼らを養う。」

捕囚後の預言だからもちろんこのダビデはあのダビデではない。この辺が「救世主思想」だろうか。

このように「新しい信仰」のようなものが続くと思ったら、最後の方で牛や羊のささげものについての、モーセの律法のような記述が続き、そして最後は「幻のうちに」宮があらわされ、その詳細な大きさなどが示される。

というわけで、この書は預言書と黙示録と律法書があわさったような、壮絶な書である。

(追記)
38章に、「最終戦争」のような預言がある。
「メセクとトバルの大君であるマゴグの地のゴグ」に対する預言である。