「戦争と平和」 (6) 第二巻 第三編

舞踏会とか、夜会とか。ピエールは社会運動家のようになる。妻を亡くしたアンドレイ公爵は父に反対されるがナターシャに結婚を申し込む、など。

さて、登場人物達はみな、「公爵」「伯爵」などという肩書きのついた人々、つまり貴族である。私もそうだったが、多くの人は小説を読むときにはそのような肩書きをほとんど無視して、一人の人間として、男や女、父や母、夫、妻、友人、などという関係とその間に生じる感情などを読んで、共感するのではないだろうか。だが、この第三編を読み終えるくらいに、私はそのような読み方でいいのだろうか?と思い始めた。

果たして、当時のロシアにとっての爵位というのはどのような意味を持っていたのだろうか?今、私の生活に爵位などというものはもちろん関わりがない。日本にも士族とか華族とかいう制度があったが今は廃止された。従僕とか侍女などもいない。家政婦さんはいても、それはあくまでも職業であり、契約して何かをしてもらうだけであって、主従関係はない。しかし、1800年頃のロシアを舞台にしたこの小説を読むときに、そういう時代だから「公爵」だの「伯爵」だのという肩書きがついているだけであると考えていわば「読み捨て」てしまって良いのだろうか?

本作品内では、人の呼び方はいろいろ変わる。たとえば主人公のピエールはだいたい「ピエール」と書かれるが、「ベズーホフ伯爵」と書かれることも多い。「アンドレイ公爵」はときどき「ボルコンスキイ」と書かれる。ピエールの妻となったエレンは、「ベズーホフ伯爵夫人」とか「エレーナ・ワシーリエヴナ」などと書かれる。が、基本的に登場人物の名は爵位をつけて書かれる。

これらは、当時の習慣だからそのように書かれているのだろうか?われわれは「戦争と平和」を読むときに、「貴族社会を描いたドラマ」として読むべきなのだろうか?それとも、時代や国や身分が変わっても、人の心の動き、感じることは同じなのだ、というような普遍的なものを読むべきなのか?

私はいままで、「普遍性」を読み取ってきた。しかし、いい加減にそれに無理を感じている。舞踏会とか、夜会とか、その際の服装とか、会話の内容とか、身分による関係であるとか、あまりに今の自分には縁がなさすぎる。前にあった、ニコライが作った多額の借金とかもそうである。


現代のわれわれがNHKの大河ドラマを見るときに、平清盛とか源義経が出てくれば、普通の一人の人間とは見ない。それらの人物が泣いたりすれば、「ああいう人にも泣くことがあるのか」というように見るだろう。「戦争と平和」も、そのように読むべきなのではないだろうか?

つまり、登場人物に感情移入することが難しいのではなく、それをしてはいけないのではないか?

公爵とか伯爵というものが、どれくらいの重みを持つのかがよくわからない。もう、一般人とはかけ離れた本当に特権階級なのか、それとも公爵などたくさんいて、あまり普通の人と変わらないのか。

陰影礼賛

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