2008/12/31

東方神起 「どうして君を好きになってしまったんだろう? 」

昨日、レコード大賞を見た。今までこんな番組は見たこともなかったのだが。
今年はやることもないしほかにおもしろいものもないので。
東方神起は、行きつけの韓国料理店のでっかいTVでコンサートの映像が流れているのを見たことがあるのだが、日本の同様なアイドルよりも歌も性格も全然いいと思っていた。
曲はあまりじっくり聴いたことはなかったのだが、この曲はすばらしい。

作曲者はどこの国の人だろう?
コードを分析してみた。

B -- F# -- G#m -- F# -- G#m -- F# -- E -- F#

という感じである。
カポ2にして、

A -- E -- F#m -- E -- F#m -- E -- D -- E
である。
でも、なんかテンションノートが乗っている感じもする。

2008/12/29

ゴジラ対メカゴジラ

ゴジラ対メカゴジラ(1974公開、日本映画専門チャンネル)

録画されていたので見てみた。まず驚いたのが、沖縄が舞台だったことである。
オープニングテーマは沖縄風で、タイトルバックも沖縄である。キングシーサーなんてのも出てくる。
いまや沖縄フリークといってもいいくらい沖縄が好きになったのだが、
こんなところに沖縄との出会いがあったことはまったく記憶になかった。
でも、潜在意識に植え付けられていたのだろうか。
たぶん、1975年から開催された沖縄海洋博覧会があった関係で沖縄が舞台になったというのもあるだろう。
本土に復帰したのは1972年だったのか・・・。まだ復帰したてだったんだな。

最後のクビを回すシーンの前に、メカゴジラがみずから頭を回転させてバリアを張るシーンがあって、
当時私は「自分で頭をまわしていたのにどうしてゴジラに回されるとちぎれるんだ」と疑問に思っていた。

そもそもゴジラはこの戦いで非常に苦戦したのだが、途中で突然体を磁石にして、それによってメカゴジラを引き寄せ、
キングシーサーの協力もあって最後クビをねじ切る。

キングシーサーの記憶がない・・・。
なんだか毛むくじゃらで猿みたいで、子供が好むような怪獣ではない。

そもそも、ゴジラがまるで日本の守り神みたいになっているのが不思議だった。

2008/12/24

ロリータ

1962年、スタンリーキューブリック監督。
私はキューブリックファンであるが、この映画はあまり入り込めなかった。自分の掲示板の校正をしながら適当に流していた。
なんか、観ていると疲れる

Kids Return

この映画は公開当時に、キャバクラで知り合ったとてもかわいいコと一緒に観に行った。
そのコには8万円の財布を買ったが、手すら触れずに、ほどなくして別れた。

カップルで観るような映画ではない。
新宿の映画館だったが、終わった後、女の子が一人ワンワン泣いていて、となりに男がなすすべもなくうなだれていた。

この映画は、武の作品のなかでは評価が高いほうに入ると思うが、
私はこの映画があまり好きではない。
確かに、魅せられるものはあって、今回も一気に観た。

でも、何か腑に落ちないものがある。
武が、裏で笑っているように思えてならない。

一見シリアスな話なのだが、成功者として描かれるのは漫才師とトリッキーなボクサーである。
トリッキーなボクサーについては、あの後挫折する感がミエミエのようでもあるが・・・。

自分が漫才で大成功しているし、ボクシングジムにも通っていたそうだし、
多分自分が見てきた人々を描いているのだろう。

でも、あまりに残酷で救いがなさ過ぎる。
ヤクザの描き方も、薄汚くて醜すぎる。

どうしてもこの映画は好きになれない。

2008/12/15

夏目漱石の病気

漱石は胃が悪くて、何度も胃潰瘍を起こした末に、潰瘍が胃壁を食い破って血管が切断されて出血するという壮絶な死に方をしたそうだ。ガンだったのではないだろうか?
また、彼は「神経衰弱」だったことも有名であり、作中にもそういう主人公が出てくる。
彼の病気について調べていくうちに、面白い説を見つけた。
漱石は胃潰瘍と神経衰弱という二つの病気を抱えていたが、なぜか胃潰瘍になると神経衰弱がおさまっていたという。
そして神経衰弱とはドーパミンの過剰分泌によっておこされる「統合失調症」であり、漱石の体は胃潰瘍の激痛に耐えようとしてドーパミンが大量に分泌されるようになって、胃潰瘍がないときはそれが統合失調症として発症し、胃潰瘍になると鎮痛作用として働くために統合失調症の症状がおさまっていたというのである。
漱石は子供の頃からたくさん病気をしていて、そういう体になったというのである。

私も自分でも覚えていないくらい幼い頃に病気をして、医者が注射する薬の種類だか量を間違えて、危険な状態になったという話を聞いている。そして、子供の頃はいつもだるくて気持ちが悪いことが多かった。遠足でバスに乗れば酔うし、朝礼でたっていれば立ちくらみを起こして座り込むし、すぐ下痢をするし、という具合に。

それはほとんど精神的と言うか神経症というか、学校生活でのストレスから発症したものだと思っている。
学校に慣れてくるとだんだん収まっていき、中学生になって部活動を始めて体も強くなっていくと心身ともに落ち着いていった。

しかし、その頃には私は自分の精神が人とは違うことに気づき始めていた。
もしかして私も、幼児期の苦痛に耐えるために、大量のドーパミンを分泌する体になったのではないか?
そして、いわゆる「天然ボケ」とか「不思議ちゃん」とか「電波」とかいわれる人たちも、同様なのではないか?

2008/12/13

オールザットジャズ

これもタイトルだけはよく聞くのに観ていなかった映画のひとつである。
生涯指折りの二日酔いで寝ていることもできないくらい気持ちが悪く、テレビのチャンネルを回していると偶然やっていた。
ジャズとは全く関係のない映画だった。影武者とこの作品の二つが同時にカンヌグランプリだったそうだ。
村上春樹が好きそうだな。
でも俺はきらい。

例によってネットでレビューを探す。非常に評価が高い。まあ、カンヌグランプリだからな。否定はしにくかろう。「8 1/2」と比べる人が何人かいてパクリと言っている人までいたが、自伝的かつメタ映画っぽいところは確かに同じだが、私がこの2作品から受ける印象は太宰と三島くらいに違う。そして太宰と三島も似ているという人がけっこういるんだけど、この二人が似てたら日本人作家の作品全部似ちゃうだろ。

主役の俳優はどこかで見た顔だと思ったらジョーズの主演。フレンチコネクションにも出ている。この映画を撮ったときに47歳。

私は「踊る」ということを知らない。一人でちょっとふざけて踊ることはあるが、人前では絶対できない。ダンスよりもスポーツのほうが美しいと思う。

でもそういう合理的でも合目的的なことでもないものこそが芸術であり美であるというのが、オトナになってわかったことである。

2008/12/11

「漱石文明論集」

仕事の必要で長時間電車に乗ることになり、暇つぶしのために本を持っていくことにした。選んだのは岩波文庫の漱石文明論集である。「私の個人主義」「現代日本の開化」などが収められている。これらは明治44年頃の講演である。漱石は明治の年数が年齢と一致している。三島は昭和と。なので彼らが何歳のときかというのがすぐわかって便利だ。

「私の個人主義」では、漱石が文学とは何かということについてとても悩んだ末に、結局それは自分でどういうものかを考えるしかないと思った、とある。それが彼を文豪たらしめた瞬間であろう。彼は、自分が求めているものを誰も教えてくれないのはもちろん、持ってさえいないことに気づいた。つまり、自分があたらしく何かを築き上げようと考えたのである。これは大変なことである。胃が痛くなるのも当然である。

私も今、自分が求めているものを誰も与えてくれないことに悩んでいる。それは決して自分が甘えているのではなく、現存するものの中には私の求めるものがないのである。となれば、そう、私が築き上げるしかない。

2008/12/09

山本周五郎 「季節のない街」



「季節のない街」を読み終わった。
山本周五郎の作品を今頃になって読んだ事を後悔している。
せめて30歳くらいで読んでおきたかった。
兄が「さぶ」を持っていて、ちょっと読んでみようかなと手に取ったことはあったのだが。

人物の存在感というか、リアリティというか、現実感というか、
自然さというか、頭の中での言葉遊びではない、人を描いた、
小説らしい小説、剛速球のストレートな感じだ。

こういう世界から遠ざかっていた。
子供の頃、それも小学校へも行っていなかった、
近所の3歳から10歳くらいのいろんな子供達と
ワイワイ遊んでいた頃のことを思い出す。
土曜日や日曜日に近所の家で遊んでいてお昼ご飯をごちそうになると
母に怒られた。
ごちそうする母もそれをしかる母もいい母である。
私はなぜ怒られたのかよくわからなかったが・・・。

そこから引っ越して、近所づきあいがあまりない、
今住んでいる場所に来てからは、なんだか寒々しい日々が続いた。
テレビやマンガやゲームで遊ぶようになり、
やがてひとりを好むようになって、
社会人になってからは仕事が終わればほとんど人と会話もしない・・・
たまるストレスと不安・・・

それは私に限ったことではないだろう。
この街のような、感情をむき出して愛憎にまみれた、
一見汚く醜いような人間模様は、今すっかりなくなってしまい、
近所で子供が殺されても誰も気づかず、
すぐそばに住んでいながら顔も知らないような社会になった。

生活は便利に豊かになって食べ物にも困らないし
一年中エアコンが稼動して快適にすごせる・・・
でも、そんなのくそくらえだ。

感動したのでヤマシュウの文庫を4冊注文した。

2008/12/06

シティオブゴッド

この映画は公開当時話題になった。たしかタランティーノが売れ出した頃だ。
レンタルして見て、衝撃を受けたのだが、何か釈然としないものがあった。
今見ていてその理由がわかった。

わたしはヤクザ物、アウトロー物が好きである。
この映画も一見そのようであるが、決定的な違いがある。
それは彼らが自分の快楽のために悪事を働き、カタギの人間を殺してカネを奪っているところである。
これはただのケダモノ、なんのポリシーもない野獣、人間ではない。
こういうものには共感できない。

ラブホテルで最中のカップルを襲ってカネを取るなんて、卑怯にも程がある。
しかもそのカップルを撃ち殺してるんだぜ?

こんな映画が売れてる世の中もどうかと思う。多分中国では上映許可されないだろう。

生きていくためには悪事もやむをえない、宗教や法律なんか体制が無辜の民衆を押さえつける道具だ、そういう発想を憎む。

運転手に銃を突きつけて逃げるカップル。男が警察に捕まり撃たれているのにそのまま車で逃げて降りようともしない女・・・。

兄貴を殺した男が元締めをしているヤクを買ってそれを使って女を口説こうとする写真が趣味の気弱な男・・・。

子供に悪口を言われて逆上し子供を使って子供を殺させるスラムの自称支配者・・・。

後味の悪い映画だ・・・
子供使って何やってんだよ

この映画撮った監督とか脚本家とか、ちょっと儲けたかもしれないが
今頃干されてるぜきっと。

みんなの反応はどうかと、アマゾンのレビューなどを読んでみたがほとんど絶賛している。
「ブラジル人は人を殺しても陽気で爽快」「残酷なのに不思議と後味が悪くない」などと言っている。
あのね、これは実話に基づいてるんですよ?爽快だの言うところじゃないでしょ?
後味が悪くないって、どんだけ鈍感で理性マヒしてんだよ。

実話に基づいているという事が、さらに俺にこの映画を嫌いにさせた。

インランドエインパイア

後半はグダグダでわけがわからなかった。
私はわけがわからない系の映画は嫌いではないのだがちょっと度が過ぎているように感じた。
この映画ではクローズアップが多用されていた。私が何度か指摘しているTVドラマなどの欠点である。
しかし、この映画では不快さは感じなかった。リンチはTV作品も手がけているせいもあるだろうが、彼はクローズアップを便宜上使っているのではなくて好きで使っているのだろう。

前半は、主人公が常識人で周囲の異常な人や状況に対して戸惑い冷静になろうと努めているので、観客は彼女に支えられて異常な世界を眺めていることができる。

しかし、後半は彼女も壊れてしまい、口調も汚くなっていく。そうなるともうついていけなくなる。
3時間という長尺にしたのは、破綻したのもあるし、あえてそういうグダグダをやってみたというのもあるかもしれない。
リンチ程の監督になると、やりたい放題で半分遊びのようなものだったのかもしれない。
何の意味もないことに対して、ああだこうだと意味づけをする観客や評論家を引っ掛けようとしたのではないかとも思える。

私はホラーとかサスペンスとかいうものには全く興味がない。
そしてリンチはそういう作品を撮る人である。
彼の作品で唯一共感できたのはワイルドアットハートである。

それに出ていたローラ・ダーンが主演だったから見れた映画だった。
監督もローラで遊んだだけじゃないのか?
よっぽどお気に入りなんだな。
こういうのはメタ映画っていうのだろうか?
映画を撮っているのを映画にしている、というようなところは。


「ニッキー・グレイス」って、ワイルドアットハートの役名じゃなかったっけ?
違った、セイラーとルーラだった。
でも、なんかきいたことのある名前だな、「ニッキー・グレイス」・・・
まあいいや。

実はこの前にマルホランドドライブも録画していてちょっと見たのだが、そっちは全部見れなかった。

ファミレスみたいなところで、ホモみたいな眉が太くて目が大きい男が夢の話をしていて、それをニュースキャスターみたいな男が聞いている。
その後店をでてその裏口みたいなところへ行くと、猿みたいな気持ち悪い男がでてきて、ホモ野郎が気を失う。
そのシーンを見て、うんざりした。結局そのシーンの意味は最後までわからない。

初めて見たときは感動したオーディションのエロシーンも、あらためて見てみるとそうたいしたものではなかった。

2008/12/03

タワーリングインフェルノ

BS2でやっていた。先日亡くなったポールニューマンの追悼放映だ。この映画のことはよく知っているが、観たことはなかった。公開は1974年だからわたしが小学生になるかならないかの頃である。しかしなぜこの映画のことをよく記憶しているのかがわからない。この映画のチラシだかポスターが高値で取引されているとかいう理由だったような気もするが・・・しかしわたしはこの映画を見ようという気にはならなかった。単に高層ビルが火事になってパニックが起こるというだけのくだらない映画だと思っていたからだ。

そして、そのわたしの予想通りのくだらない映画だった。

ダイハードそっくりだったが、ダイハードのような爽快感はない。火事の原因が人間のエゴによる過失だからである。わたしはこの映画をぼーっと見ながら、原作者のちょっと病的な心理を感じていた。まったくのカンだが、この作者は高齢にさしかかり、生活や健康について不安を感じ始めていたのではないか。特に塔と炎というと、性的な情念とそれに耐えられない肉体、という連想をどうしてもしてしまう。

2008/12/02

村上春樹 「羊をめぐる冒険」

「羊をめぐる冒険」を読み始めたがうんざりしてきた。やたらとセックスだのペニスだのが繰り返される。誰とでも寝る女とか。そのうちセックスはやろうと思えばいくらでもできた、とか。図書館で立ち読みした「ノルウェイの森」にもそんなことが書いてあって、読む気を失くした。もしかして村上の小説はこんなのばっかりなのか?

共感できるのは主人公が終始ビールやウィスキーをがぶがぶ飲んでいることくらいだ。

太宰も自分がもてたとかいうことをちょくちょく書いているが、彼は実際かっこいいし、あまり露骨な事はいわないから許せる。セックスがどうこうという話になったときに彼の顔が思い浮かぶとものすごく白ける。「鼠」って、奴のあだ名じゃないの?

「羊・・・」をなんとか我慢しながら読み続けてきたが、
今朝読んだ部分はとてもすばらしい描写だった。
それは電車に乗って北海道のさびれた町へ行きそこを歩く描写であるが、
比喩や皮肉っぽい言い回しをからめてなんとも言えない空虚さと寂しさのようなものを醸し出している。
これが村上春樹か・・・
と思ったところで、主人公と女の会話が出てきたところでまた少し不愉快になった。

通勤で電車に乗る時間はほんの3分程度である。
電車を降りて今日読んだ箇所のことを考えていて、以前自分が彼の小説について語った言葉を思い出した。
「新聞の折り込み広告のマンションの完成予想図に描かれているような人間の描き方」
要するに、人間を描くのがヘタなのだ。
きっとそうだ。

ジャズはメロディーを重視しない音楽である。
悪く言えばメロディーをバカにしたような音楽。
それを文学に当てはめると、人間の感情や感動をバカにしたような文体になり、
それが村上の文体である。
彼の小説の登場人物は躊躇したり恥ずかしがったりあれこれ思い悩むことがない。
これはアメリカ風なのだろうか?
ずばずばとものを言い合って、ほとんどケンカ腰ですらあり、
目に入る人物をことごとく観察しあざ笑っていくようである。
自分が相手にどう思われているかなど全く気にしない。

カフカも彼が大好きな作家のようで、彼の影響も受けているようだ。
私は審判しか読んでいないのだが、カフカと似たところもあるが、根本的に違う。
カフカには酔っ払ったような自由奔放さも物悲しさもなかった。
彼の小説から感じるものはもっと暗くて恐怖に近いくらいの不気味さである。
そのかわり人を馬鹿にするような雰囲気は感じられなかった。

村上春樹を読むようになってから、自分の文章を読むとつまらないし
文法的にもミスが多いと思うようになった。

これは他の作家ではなかったことである。
三島由紀夫や太宰や漱石やらは自分の文章とは比較対象にすらならないからだろう。

村上は世代が近いし文章も一見誰でもかけそうな平易な言葉を使っているから、自分と比較してしまうのだと思う。
しかし読み続けていると、ノーベル賞有力候補の大作家に向かって言うのもなんだが、文才は尋常じゃない。


「羊をめぐる冒険」を読み終わった。つまらなかった。

特に「冒険」が始まりだしてからは読むのが苦痛でたまらなかった。「聴け」、「ピンボール」はまあまあよかったのだが。なにがいけないって、ある模様のついた羊を探すとか、それに右翼の大物が絡んでいるとか、そういう安っぽい映画みたいな話は受け付けない。羊を探していると思ったらそのうち「鼠」を探しだして、羊男なんてのが出てきて、ついに鼠に会ったと思ったら死んでいたとか言い出す。だいたい、「鼠」って何者?主人公もそうだけど、鼠という登場人物には何の共感も覚えない。読んでいて鼠が出てくると頭の中には「鼠先輩」が現れる。真っ暗な部屋のなかで、鼠先輩と近田春夫が背中合わせでビールを飲みながらナンセンスな会話をしている情景が思い浮かんで、滑稽でしかない。セックスしたとか誰とでも寝る女とかがよく出てくるけど、そのときもあのモグラみたいな村上春樹がセックスしているところなんか、想像もしたくない。相手の女はどう考えても美しくないだろう。

そしてようやく羊を片付けたので、読みかけていた季節のない街を再開した。これはおもしろい。登場人物に生命が感じられる。今読んでいるカンドウセイキョウの話はとくに面白い。漢字で書くべきところがひらがなになっていたり、原稿用紙の字は汚く走り書きのように書かれているのではないかと思える。絵でいうと非常にラフな感じ。だが、リアリティはあり、調和もとれている。三島由紀夫とは対極な感じだ。