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旧約聖書を読む (3) レビ記


Well, the Book of Leviticus and Deuteronomy
The law of the jungle and the sea are your only teachers 
Bob Dylan "Jokerman"

レビ記は、法律の条文みたいなものである。
ささげもののささげ方、食べてよいもの悪いもの、汚れたものとそうでないものの区別などが書いてある。ここでもやはり同じようなことが繰り返されていると思うと微妙に違っていたりする。
レビ記は「聖句」として引用されることもまずなく、とても退屈なようだが、そうでもない。以前読んだときにもレビ記はおもしろく読んだ記憶がある。



ささげ物については、燔祭、火祭、素祭、酬恩祭、揺祭、挙祭、愆祭など種類がありその手順が書かれている。これらが何であるかはその名前や前後の内容からだいた想像がつくが、英語でどういうのかを確認してみた。

英語の聖書は、iPadでYouVersionのBible Appを使った。このアプリは素晴らしくて、各国語のさまざまなバージョンの聖書が読める。今回参照したのはKing James Versionである。

燔祭 burnt offering
火祭 an offering made by fire
素祭 meat offering
酬恩祭 peace offering
揺祭 wave offering
挙祭 heave offering
愆祭 trespass offering
罪祭 sin offering

羊などのささげもののしかたは、それをほふり、血を塗り、脂肪と内臓(どこかも指定されている)を取ってそれは焼く。
何度も強調されるのは、「血を抜く」ということである。
血については、食べてよいものを記したところでも「食べてはいけない」と強く禁じられている。
その理由として、「肉の命は血にあるからである」「血は命であるゆえに、あがなうことができるからである」「すべて肉の命はその血と一つだからである」とされている(17章)。

「畑のすみずみまで刈りつくすな」「刈り入れの落穂を拾うな」というところで、その理由が「貧しいものと寄留者とのために残しておけ」というところなども印象に残った。

子供の頃、「エンガチョ」というのがあった。犬の糞を踏んだとか、おしっこが手についたと人は「汚れたもの」とされ、指である形をつくるとその「汚れ」から身を守ることができるが、それをしていない人は汚れた人に触れるとその人も汚れてしまう、という「風習」である(そんなおおげさなものとは考えていなかったが)。

レビ記に書いてあるのも、それと似たようなものである。

「ささげ物」について、現代にもあると思ったのは、「始末書」である。始末書などというものは全く形式的なもので、ほとんど宗教的な儀式だ。不祥事を起こして謹慎するとか、減俸になるとか。

もっと言うと、トイレに行った後に「手を洗う」ということさえ、「儀式」にすぎないのではないだろうか。「パソコンのキーボードは便座と同じくらい汚い」というのが話題になったことがあるが、それはキーボードが思っている以上に汚いのではなく、トイレがそれほど汚くないとも言える。ただ水道の水でジャーっと流してタオルで拭く程度では、別にたいしてきれいになどはならない。


なぜささげ物のようなことが必要なのか。そしてその方法が細かく規定されているのか。
神(主)と何の関係があるのか。あらためて疑問に思ったが、それは言うまでもないことかもしれないが「罪」のためである。イスラエルの人々が主を、主でなければ小牛の偶像でも作って拝もうとするのは、否定しようのない「罪」の意識があるからである。「罪」については、もはや説明すらされない。それは、アダムとエバが「裸であることを恥ずかしい」と思ったように、否定するまでもなく、ありありと感じているものなのである。

誰が言ったというわけでもないが、レビ記にかかれているような戒律、何が汚れているとか、食べてはよいものと悪いものの区別とかについて、「科学が未発達だった時代に人々が経験などから戒律としてまとめた」と考える人がいる。「神」とか「宗教」そのものがそうだという人もいる。多分たくさん、特に日本人には、いるだろう。私はそうだとは思わない。通常の状態があり、何かをすると汚れたり悪くなったりするのではない。通常の状態がすでに汚れて悪く、そこから正常な状態にもどろうという考え方というか意識である。

ちなみにJBS(日本聖書協会)の聖書では「神」という言葉はあまり使われない。基本的に「主」である。「みだりに神の名を唱えるな」ということからそうしているのだろうか?ちなみに私はエホバの証人の聖書も持っているが、そこでは「主」はほぼ全部「エホバ」となっている。エホバの証人の人と話したことがあるが、彼らは神には固有の、アブラハムとかモーセとかと同じように名前があり、それが「エホバ」だと考えており、だからその名をきちんと呼ぼう、ということだそうである。

(追記)
ある本を読んで知ったのだが、「エホバ(YHWH)」という名はモーセに対して初めて明かされたそうだ。「ヤハウェ」などとも呼ばれる。
出エジプト記3章と6章にそのことが書いてある。

JBS聖書

3:13-14
モーセは神に言った、「わたしがイスラエルの人々のところへ行って、彼らに『あなたがたの先祖の神が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と言うとき、彼らが『その名はなんというのですが』とわたしに聞くならば、なんと答えましょうか」。神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。

6:2-3
神はモーセに言われた、「わたしは主である。わたしはアブラハム、イサク、ヤコブには全能の神として現れたが、主という名では、自分を彼らに知らせなかった。


新世界訳(エホバの証人)聖書

3:13-14
それでもモーセは[まことの]神に言った、「わたしが今イスラエルの子らのもとに行って、『あなた方の父祖の神がわたしをあなた方のもとに遣わした』と言うとしても、『その方の名は何というのか』と彼らが言うとすれば、わたしはこれに何と言えばよいでしょうか」。すると神はモーセに言われた、「わたしは自分がなるところのものとなる」。そしてさらに言われた、「あなたはイスラエルの子らにこう言うように。『わたしはなるという方がわたしをあなた方のもとに遣わされた』」。

6:2-3
そして神はモーセにさらに話してこう言われた。「わたしはエホバである。そしてわたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに対し常に全能の神として現れたが、わたしの名エホバに関しては自分を知らせなかった。

ここはエホバの証人聖書でないと意味がわからない箇所である。

私はエホバの証人の変わった信仰に興味を持っている。それは、輸血の拒否、誕生日を祝わない、乾杯をしない、人は本来不死であった、霊界は存在しない、などというものである。「興味を持っている」というのは、肯定的な意味である。つまり、彼らの言い分はもっともだ、と思っている。