新約聖書を読む (8) コリント人への第二の手紙

パウロは肉の軽視を強調する。肉の欲をほぼ全否定する。
食べたり飲んだり結婚したりは、いい事ではないが許されている、という立場である。


さて、聖書にはパンとパン種のたとえがよく出てくる。
福音書に、「5つのパンと2匹の魚を5千人にも分けて、パン屑が12のかごに一杯になった」、「七つのパンと小さな魚を4000人にわけてパン屑が7つのかごに一杯になった」
という話が出てくる。

私はこれは間違いなく何かのたとえであると思うのだが、ずっと何のたとえだかわからなかった。
これは弟子たちがある事実を暗号のようなものとして記していることではない。なぜならその後で、イエスがこのことについて弟子たちに「まだ悟らないのか」と言っているからである。だから上記の出来事は象徴的なできごとではあろうが、実際に起きたことなのである。

まず、どうやっても5つのパンはそのままでは5000人は満腹にならない。私がまず考えたのは、「5つしかないのなら私は食べない」と皆が言ったのでパンが余ったということかと思った。しかし、ちゃんと「食べて満腹した」と書いてあるし、残ったものは「パンくず」であったからそれは違う。

イエスは「天を仰いでそれを祝福し、パンをさいて弟子たちに渡された」とある。
ここに秘密がある。このことによって、「5つのパンと2匹の魚」が5000人を満腹させた上に、12のカゴにいっぱいになるほどのパン屑があまったのである。

これはイエスのおこなった奇蹟で、パンが本当に、物理的に増えて、ほんとうに屑が12の籠に一杯になった、ということだろうか。

でもそれなら、「5つのパンが1万個に増えて人々は食べきれなかった」と書かれるだろうし、12のカゴに一杯になるほどのパン屑がでるというのはあまりにお行儀が悪すぎないか。それに、「5つ」「2匹」「12のかご」という数字があまりにも意味深である。

この答えのヒントを、イエスが示している。

マタイによる福音書16章
「パリサイ人とサドカイ人とのパン種を、よくよく警戒せよ」
・・・・
「まだわからないのか。・・・・五つのパンを五千人に分けたとき、幾かご拾ったか。
・・・・
わたしが言ったのは、パンについてではないことを、どうして悟らないのか。
・・・・
そのとき彼らは、イエスが警戒せよと言われたのは、パン種のことではなく、パリサイ人とサドカイ人との教えのことであると悟った。

「パン種」は「教え」のことだとするなら、「パン」とは何か。パンは、パン種によって膨らまされるものである。

出エジプト記12章
そしてその夜、その肉を火に焼いて食べ、種入れぬパンと苦菜を添えて食べなければならない。

私はパンを作ったことはないが、パンはイースト菌を入れてしばらく置いて発酵させる。そういう役目をするものが「教え」にたとえられるなら、「パン」は一体何のたとえなのか。

発酵といっても、べつにパンの量は増えない。膨らんで大きくなったように見えるが、粉の量は同じだ。つまり、パン種というのは小さなものを大きいものに見せかけるようなものの事だろうか。

もしくは、逆に、小さなものを膨らませておいしくするという善い意味だろうか?


マタイによる福音書13章
天国は、パン種のようなものである。女がそれを取って三斗の粉の中に混ぜると、全体がふくらんでくる。

ここでは善い意味でたとえられている。

「種入れぬパンを食べる」というのは、ふくらんでいないパンがいかにおいしくなく、パン種がいかに重要かを思い知らせる意味があったのだろうか。


インターネットで検索すると、これらのたとえがどういう意味なのかを説いている人がたくさん見つかるが、どれも微妙に異なる。

あまり急いで結論は出さないようにしよう。
パンが膨らむのには時間がかかることだし。


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